時代を読む

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蒲田中小企業の戦後

 ことしは日本の敗戦から70年目となる。そのせいか〝戦後70年特集〟が雑誌やテレビで大はやりだ。そんな中で戦争直後の大田区の中小企業とその後の歴史をまとめた資料が目を引いた。

 中小企業の街といえば、東の大田区蒲田、西の東大阪が両横綱だろう。戦時中の蒲田・大森地区は中小企業が密集し〝産業報国〟のため様々な兵器を作っていた。鉄砲やカブト、手榴弾など軍の命令でとにかく軍用資材を作るのに手一杯だったらしい。ところが、1945年8月15日に突然の敗戦。当然兵器はいらなくなるし、それどころか連合軍(GHQ)が進駐し、工場群の視察まで課題となったから各社はあわてふためいた。荏原製作所は海軍の命で特攻兵器などを製造し、未使用で納入前の品が残っていたので見つかると処分を受けるかもしれないというので、8月18日夜に釣船3艘(そう)を借りて闇夜に乗じて廃棄したとか。東六郷の富田製作所は9月15日に進駐軍から第一、第三工場の明け渡し命令を受け、24時間以内に準備せよと有無も言わせてもらえなかった。また第二工場の前には数十台の重タンク車が並び収容しようとしたが門が狭かったので塀を破って入ってきた。日本特殊鋼の場合は羽田に離着陸する連合機の邪魔になるからと7本の煙突が切断された。戦争中は国に滅私奉公を強要され、敗戦後はGHQの動きに脅える有様だったといえる。

 焼け残った工場もそのまま自由になるわけではなく民需転用の許可をうけないと操業できなかった。許可が出ても機械や資材を集めなければならず、最初は弁当箱やフライパンを作ったり、空地を利用して野菜を作る会社も少なくなかった。大田区下丸子にあったあの三菱重工東京機器製作所も手持ちの材料で鍋、バケツ、洗面器、リヤカーなどの日用品をつくり、三越まで売り込みに行ったそうだ。

 その蒲田などの中小企業が突如息を吹き返したのは1950年6月25日から始まった南北朝鮮の戦争だった。アメリカ軍は日本を朝鮮戦争の後方地域としアメリカ軍と国連軍の軍用資材を発注してきたのだ。いわゆる〝朝鮮特需〟である。大田区の生産額は昭和24年(1949年)度を100とすると、25年度は137、26年度は407と続き、その後も40〜50%増となり30年度は1039と10倍にまで生産額がふえている。

 60年代に入ると今度は日本の高度成長の波に乗ったうえ、一人親方工場と呼ばれる零細企業が技術力をつけ、ネットワークを組んでリコー、キヤノンいすゞなどの系列企業群として成長していった。いすゞは192社の協力工場のうち43社が大田区にあったという。

 しかし大企業は広い土地を求めて大田区から北関東などへ転出、さらに円高も蒲田企業を苦しめる。最盛時には8000社といわれた蒲田の中小企業群はこの失われた20年で倒産、再編、海外移転などで4000社以下に減っている。蒲田の歴史はまさに日本の中小企業の興亡史だ。
【財界 2015年3月10日号 第394回】

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