時代を読む

ジャーナリスト嶌信彦のコラムやお知らせを掲載しています。皆様よろしくお願いいたします。

深みなかった戦後70年論

 戦後70年にあたる2015年がまもなく終わる。今年は、いつになく戦後日本を総括する文章が識者によって書かれ、70年の意義と今後の未来を語った。

 しかし、どれも消化不良でストンと胸に落ちる論がなかったように思う。世界は一段と混乱を深めてきたし、日本の未来も希望より不安に満ちている。私が10代だった頃は、まだ日本の地位は低く豊さも手にしていなかった。ただ多くの人は、将来の日本と自分たちの生活はもっとよくなるだろうと、漠然とはしていたが確信のようなものがあった気がする。

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 先日、私は見知らぬ人から手紙を頂いた。私が9月末に出版したノンフィクション『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』(角川書店)に対する感想だった。これは満州で終戦を迎えた日本兵捕虜がシベリアではなく、約4千㌔離れた中央アジアウズベキスタンの首都タシケントの第四収容所(ラーゲリ)に強制連行された約500人の物語だ。シベリアほどではないが、厳しい気候、貧しく少ない食事、監視された楽しみのない毎日の連続と疲れる肉体労働の日々、将来の見えない日々にノイローゼ気味になる兵隊もいた部隊の話である。

 ただ彼らには特別な任務が与えられていた。オペラが盛んなモスクワやレニングラード、ヨーロッパの大都市にあるオペラハウスに負けない劇場を作ることだった。設計者は”赤の広場”のレーニン廟を設計したソ連の建築家の第一人者のシュシェフ。3階建て1400席、カクテルパーティー控えの間などを持ち天井から柱、扉まで中央アジアの紋様を彫った実に雄大で美しいビザンチン式の建築で「アリシェル・ナボイ劇場」と名づけられていた。

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 実は土台といくつかの柱は建てられていたが、第二次大戦の勃発で建設が中断したままとなっていた。そこで着目されたのが手先が器用で真面目な日本の航空修理兵だったのだ。

 隊長は24歳の永田行夫大尉、兵隊は18歳から30歳までの457人で多くは大工などの職人だった。当初はソ連の劇場を建てることに抵抗があり適当に手を抜いてつくることも考えたが、100年以上残される劇場と知って”日本人の名折れとなる建物を歴史に残すな”と衆議一決。仕事も彫刻、床工事、測量、高所作業、レンガ積みなど20班以上に分担し、1947年11月7日のロシア革命30周年までに完成させることを請け負ったのだ。

 シベリアの収容所では軍隊秩序が壊れ、威張っていた上官への吊し上げやソ連将校へのゴマすり、告げ口などが横行し、挙句にはスパイを強要され死に至る兵隊も多かった。しかし、ナボイ劇場建設にあたったタシケントの工兵たちは永田隊長のリーダーシップで、団結と協力を信条とし、意地と誇りをかけて堅牢で美しい建物を作り上げ、タシケントの街がほとんど崩壊した1966年の大地震にもびくともしなかったのである。

 その日本人の働きぶりや息抜きに歌や芝居、楽器作りと演奏、麻雀などで、和の力をみせてゆく日本人に、ロシア人収容所長や一緒に働いていた現場のウズベク人らの心を揺り動かし、ウズベク人女性との恋もいくつか芽生えてゆく。こうしてナボイ班工兵は見事に劇場を完成し、ケガなどで亡くなった二人を除いて3~4年後に全員帰国するのだ。

 感想の手紙はこれまでにも100通ぐらい頂いているが、抑留兵部隊の中にも日本人の和の精神を忘れず、現地の人に感銘を与えた事例があったことを知り胸が熱くなったと記している人が多い。現代の飽食と貧困が二極化し先が見えにくい日本人にとって、敗戦後に捕虜として生き抜き日本人の原点と誇りを失わなかった人々の行動は鮮烈な印象を残しているようである。
【電気新聞 2015年12月22日】


※なお、26日の産経新聞「書評倶楽部」に書評を掲載頂きました。
評者は「開運! なんでも鑑定団」の鑑定士としてもお馴染みの古美術鑑定家 中島誠之助様。産経新聞サイトにも掲載頂いております。

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