読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

時代を読む

ジャーナリスト嶌信彦のコラムやお知らせを掲載しています。皆様よろしくお願いいたします。

1月20日に「聖教新聞」に掲載された「日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた」に関するインタビュー内容

スタッフ。1月20日「聖教新聞」文化欄「日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた」(角川書店)の内容を掲載いたします。

以下記事抜粋

シルクロードのオペラハウス
ナボイ劇場と日本兵捕虜

若者457人による一大事業(プロジェクト)
中央アジア親日の基礎築く

 中央アジアウズベキスタン共和国シルクロードの栄華を残す世界遺産も数多い同国の首都タシケント市の中心部に、オペラハウス「ナボイ劇場」があります。総床面積1万5000平方メートル。1400席を有する3階建て(地下1階)、れんが造りのビザンチン風オペラハウスです。

 劇場が完成したのは旧ソ連時代の1947年(昭和22年)10月。モスクワ、レニングラード(現サンクトペテルブルク)、キエフと並ぶ四大劇場の一つとしてナボイ劇場の名前は知っていても、その建設の中心に457人の手に職をもった日本人工兵の捕虜が従事したことを知る方は少ないのではないでしょうか。  それから20年後の66年(昭和41年)4月、約7万8000棟の家屋が倒壊するなどタシケント市街を壊滅状態にした大地震の際、ナボイ劇場は外壁が落ちることもなく無傷で立ち、市民の避難場所となりました。この事実がウズベキスタンはじめ中央アジアの人々の心を大きく動かし、今日まで続く親日感情を築く基礎にもなったのです。

f:id:Nobuhiko_Shima:20160125180023j:plain

          ◇

 第2次大戦後、旧満州中国東北部)などでソ連の捕虜となった日本軍将兵は約60万人。シベリアや中央アジアなどで鉄道建設、石炭・石油の採掘、木材調達など使役労働を余儀なくされ、そのうち約3万人がウズベキスタンに移送されましたが、オペラハウス建設に従事していたのは第4収容所にいた457人の工兵たちでした。極寒の気候で日本兵上司への弾劾、つげ口なども多くあった収容所も沢山あったようです。  タシケントでは、ロシア革命30年に当たる47年11月の完成を目指してオペラハウスが建設されていましたが、戦争で中止。再開された工事に現地の人々と共に従事することになったのが、陸軍航空部隊で飛行機の整備・修理などを担当していたた永田行夫元大尉の部隊を中心とした457人の日本兵捕虜だったのです。

 国家プロジェクトによるオペラハウスの建設工事といっても、捕虜としてやらされる仕事。手抜きすることもできたでしょう。

 しかし、歴史に残るオペラハウスになる以上は、日本人の誇りと意地にかけても最良のものを造りたい。後世に笑われるようなものではなく、日本人の建設したものは出来が違うといわれるものにしたい。これが永田さんたちの決心でした。

 とともに、捕虜となって先も見えず、生きる張りを失っている仲間に、自分たちの技術や技能で世界に引けを取らない建築物を造るという一点を生きる糧にしてもらいたい、という気持ちだったとも伺いました。

 最良のものを造る。そして、全員が健康で無事に帰国する。この方針は小グループのリーダーを通じて共有され、各人が持ち場で力を尽くしたのです。

          ◇

 過酷な労働に当たっている人は、時々、配置換えも行ったり、食料をわけあったりしたといいます。建設への貢献が大きかったからと、ソ連側から先に日本に帰国させてやろうと言われた人がいました。しかし彼は言うのです。

 「体が弱っている者がいる。彼らを先に帰してほしい。ただし、このことは誰にも言わないでもらいたい」

 永田さんは457人全員の名前と住所を全て覚えたといいます。紙に書くとスパイだと疑われかねません。そこで毎日、朝と晩に復唱し、頭に叩き込んだというのです。

 京都・舞鶴港に帰還した後、ほとんどの人が一目散に郷里を目指す中にあって、永田さんは舞鶴に数日間とどまりました。記憶した名前と住所を紙に記し名簿化するためです。郷里に帰れば多くの人に会って忘れてしまうかもしれない。そう語っていました。

 彼らはほとんどが10代から20代。永田さんも24歳という若さでした。その若者たちによるリーダーシップ、皆で成し遂げようとする姿などは希有な例ではないでしょうか。           ◇

 ナボイ劇場の建設に従事した日本兵捕虜の話を約10年にわたって取材。昨年の秋に『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』(角川書店)として上梓しました。

 昨年は戦後70年ということもあり、日本や日本人の在り方について、議論がさまざまに交わされました。しかし、世界に向き合う日本とはどうあるべきか、もっと根本的な議論がなされてもよかったのではないか。そう感じてなりません。

 戦争は二度と繰り返してはいけない。その上で、過酷な状況の中で自分も仲間も生かしつつ一大プロジェクトを成し遂げた若者たちがいたことを、多くの方に知っていただければと思っています。 (ジャーナリスト、NPO法人日本ウズベキスタン協会会長)