14日の世界日報に掲載いただいた「日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた」の書評
スタッフです。嶌の新著ノンフィクション「日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた」が14日のに掲載されました。評者は法政大学名誉教授 川成洋様。
掲載頂いた書評は以下の通りです。
大地震にも崩壊しなかった大劇場
第二次世界大戦直後のソ連軍による日本人将兵のシベリア流刑。その数は、約60万人。彼らは、飢餓・重労働・極寒の「シベリア三重苦」のために約10万人の犠牲者を出した。こうした非人間的な状況下での「シベリア体験記」は枚挙にいとまがない。
本書によると、当時24歳の永田行夫大尉の457人の旧日本軍将兵の抑留地は、幸運にも、シベリアよりはるか南方、ウズベキスタン共和国首都タシケントだった。当初は収容所当局による強権的な対応、またソ連兵の強盗略奪や暴行などで、関東軍総司令官山田乙三大将による停戦命令と武装解除に応じた旧日本兵にとって耐えがたい屈辱であった。彼らは疎遠軍と干戈を交えて敗れて捕虜となったわけではないからだった。
彼らの任務は、戦争のために建築が中断されたタシケントのオペラハウス「ナボイ劇場」の建設であった。
彼らが選ばれたのは、第10野戦航空修理廠の部隊だったからだ。完成を待たれる建物は、総面積1万5千平方メートル、観客席1400、ビザンチン様式の3階建ての建物だった。これが完成すれば、パリやローマと比肩する堂々たるオペラハウスであった。
彼らは「無事全員帰国を果たす」ために収容所長と交渉して、例えば、食事の公平分配といった労働条件の整備を勝ち取る。彼らは生粋の職人集団であり、「世界に引けを取らない建物をつくるんだ」を至上命令にしてか敢然と任務に専念。
他の収容所などで蔓延していた「民主運動」、旧陸軍の階級制度のままの上下関係、旧上官への糾弾といった不祥事はほとんどなかったようである。
残念ながら、2人の仲間が事故死するが、とうとうオペラハウスは完成する。そして無事「ダモイ(帰国)」を果たす。そして1966年4月、タシケント市中央を震源地とする直下型大地震がタシケントを襲った。しかし、あのナボイ劇場だけが悠然と建っていたという。