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時代を読む

ジャーナリスト嶌信彦のコラムやお知らせを掲載しています。皆様よろしくお願いいたします。

中央アジアに注がれる熱視線 近く人口1億人の市場に

 紀元前の時代に、古代ローマと中国の長安などを結ぶ東西の交易路がシルクロードだった。中国で産出される絹は、ヨーロッパでは手に入らない貴重な製品だったので、“絹の道”と呼ばれたのである。後年、三蔵法師玄奘)がインドからこの絹の道を通って仏典を持ち帰り、これが日本にも伝わったのでシルクロードの東端は日本とも言われる。

 そのシルクロードの真ん中に位置する国が、中央アジアウズベキスタンだ。古くはペルシャマケドニア匈奴、トルコ、中国、モンゴルなどが覇を競った地域で、砂漠の交易都市として文明・文化の花を開かせて今に伝えているのがタシケントサマルカンド、ヒヴァなどだ。生粋のウズベク人の王朝として有名なティムール帝国(14~15世紀)は、インダス川から黒海にいたる地域にまで版図を広げた。東西の交易路の中心にあっただけに、さまざまな民族がオアシス地域に国家をつくり、先端的な文明を残した。約100の民族で構成されるというウズベキスタンは、大航海時代(16世紀)がやってくるまでは、まさに東西文明の中心地だったし、今も美男、美女の多い国として知られる。しかも、そのシルクロードが中国の“一帯一路”構想によって、再び東西の大動脈貿易路に蘇ろうとしている。

 私が本業(記者)と直接関係のないシルクロードNPOを立ち上げたのは、ほぼ20年前。1990年代半ば頃に当時のアジア開発銀行の総裁だった、故・千野忠男氏(大蔵省財務官等を歴任)から「まるで明治維新の志士たちのように国づくりに励んでいる」と熱っぽい話を聞かされ、「記者の君も直接見て紹介してよ」とけしかけられたのがキッカケだった。中央アジアは、1860年代から約150年間にわたりロシアに占領され冷戦終結後の1991年にカザフスタントルクメニスタンウズベキスタンタジキスタンキルギスの5カ国が独立(カトウタキと頭文字を覚えると思い浮かびやすい)。なかでもウズベキスタンは人口約3,000万人を有し、文化的、政治的にも中心的存在だった。

 

【中心はウズベキスタン

 もともと中国や蒙古、中央アジアには興味があったので、シルクロードの企画をTBSテレビに持ち込んでみた。シルクロードの数々の世界遺産や豊富な地下資源、共産国に属した後に、再びイスラム圏として蘇った国の変化――などを多角的に取材したら、十分に面白いリポートになるだろうと思ったからだ。

 まず驚いたのは、週1便ながら東京―タシュケントウズベキスタンの首都)への直行便が飛んでおり、その飛行ルートから見る天山山脈早大な景観とゴビ砂漠などの雄大な地域は、アメリカや欧州便などで眺める景色とはまるで異質だったことだ。さらに、日本の敗戦で満州にいた日本兵シベリア抑留の悲惨な話は何度か読んだり聞いたりしていたが、実は中央アジアにも満州から日本兵捕虜が数万人も連行され、ウズベキスタンにも約2万人が約10カ所の収容所に入れられていたことも驚きだった。シベリア抑留の悲惨な話はさまざまな本や話で伝わっているが、中央アジアの実態はほとんど知られていなかった。

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飛行機からみた天山山脈

 

ソ連の命令でオペラハウスを建設

 しかも、タシュケントの第4収容所には、第10野戦航空修理廠の部隊が集められ、特別の任務を告げられた。シベリアや他の収容所の森林の伐採や鉱山、鉄道の敷設工事などではなく、オペラハウス・ナボイ劇場を建設、完成せよという命令だったのだ。ソ連側将校アナポリスキー大佐によれば、設計はモスクワ、赤の広場を構想したシュシェフ氏で、すでに基礎工事と一部の建設には手をつけていたが、第2次大戦で中断していた。ロシア人は歌やオペラ好きが多く、モスクワ、サンクトペテルブルクキエフには世界的なオペラ劇場があるので、中央アジアにも世界で引けをとらない劇場を建てる計画を再開したいというのが共産党中央部の意向なのだという。大きさは、総面積15,000平方メートル、観客席1,400、レンガ作り3階建て、地下1階のビザンチン風建築で、壁や控えの間など劇場内の装飾は中央アジア各地域の特色を生かした紋様を彫るというのが命令内容で、ウズベク人と日本人捕虜が共同で建設、期限はロシア革命30周年にあたる1947年11月7日までという内容だった。

 日本兵捕虜の責任者は永田行夫大佐(24)で総員475人、ほとんどが大工、左官、とび、電気などの職人集団で18~30歳までの若者だった。永田隊長は「全員が無事に健康で帰国」「収容所内では皆が協力する」「100年後も残る劇場である以上、たとえ捕虜であっても後世に日本人の恥とならないような技術と職人技を発揮した建物を建設すること」などを基本精神とし、職種も土木、測量、彫刻、大工、とび職など約20の職種に分けてウズベク人と協力して仕事を進めることを誓いあった。

f:id:Nobuhiko_Shima:20160610160826j:plain永田行夫氏

 

日本人伝説をつくった日本の建設技術

 こうして永田隊は47年10月までに劇場を完成。事故死した2人を除いてほぼ全員が健康で無事に帰国した。シベリア抑留の悲劇的捕虜生活と異なり、ウズベク人からも敬意をもたれ、日本人の勤勉さと厳しい環境下にあっても和の精神を十分に保ち、永田隊長のぶれない方針と部下に慕われた稀有の例だったかもしれない。1960年代にタシュケントで大地震があり街が全壊した時、ナボイ劇場だけはビクともせず凛として建ち続けた。このため、日本人の技術の確かさがシルクロードの日本人伝説となって、今も語り継がれている。そのせいか、ウズベキスタンは1991年にソ連から独立すると、モデル国家として日本を目標にした。

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ナボイ劇場正面

 永田隊長らのすごかったところは、「とにかく全員健康で無事に帰国する」「後世に日本の恥とならない建築を、たとえ捕虜であっても完成させる」「収容所ではいがみ合わず、助け合いの精神で仕事、生活を行う」などの基本原則を確認し合い、実行したことだ。シベリアの悲劇でよく語られる仲間内の告げ口や、にわか社会主義者になってソ連側にゴマすりを行って覚えをよくする行為などはなかった。永田氏は収容所内の学習会の出席も個人の判断にまかせ、むしろストレスがたまらない楽しみのために、現場で集めた材料で将棋や囲碁、麻雀牌、花札つくりなどを大いに奨励、そのうちに合唱、旅芝居の大会などまで開き、ウズベク人やロシア人を喜ばせた。旅芝居の経験者が何人かいたので、国定忠治やお宮・貫一などの脚本をつくりウズベク人の協力で衣裳、三度笠、刀なども製作して休日に演じ周辺の収容所でも有名になった。

 劇場は約束より前の47年10月末に完成、ロシア側も喜んで完成披露の上演まで行った。劇場が完成すると永田隊の職人たちは別の収容所に移動させられたが、ほぼ3~4年内に帰国した。

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ナボイ劇場壁面に掲げられている建設を称えるプレート

 

ぶれないリーダーだった永田隊長

 さらに永田隊長のすごかったところは、部下たちの名前・住所を暗記し、帰国後に家族たちに無事を伝えたことだ。紙に書いて見つかるとスパイと間違われる恐れがあるため、すべて暗記し、帰国船で舞鶴に着いた後も、2、3日とどまって住所、氏名を紙に書きおこし、後の第4収容所会の名簿までつくり毎年同窓会まで開いていた。永田氏の亡くなる92年まで続いたという。

 永田氏は隊員の健康を考え、普通ならノルマの遂行度に応じて食事の量を変えるが、全員平等に行き渡るようにソ連側将校と交渉して実現し、自らスパイ容疑をかけられると相手の目前で図面を引き工兵部隊の責任者であることを証明するなど、口数は少ないが肝の座った軸のぶれないリーダーだったという。

 私は、ウズベキスタンには1996年から6~7度訪れているが、ゆっくりではあるが着実に成長し安全な国という印象が強い。日本の商社、いすゞなどまだ20社に満たない日本企業しか進出していないが、ウズベクからは毎年100人以上の留学生が日本にやってきて技術や国際法、国際金融などを学び、最近は日本企業に就職する学生も増えている。語学の才能が素晴らしく、ウズベク、ロシア語のほかトルコ語ペルシャ語、日本語を読み書きし、さらに英、仏、中国、ドイツ語などをマスターしている学生も少なくない。

 96年当時の人口は2,100万人だったが今は3,000万人に達し、中央アジア5カ国でまもなく1億人の市場を形成しようとしている。イスラム国に属するが過激な運動はなく、きわめて親日的な点も大きな特徴だ。

 

大乱の時代に可能性秘めるイスラム中央アジア

 近年は、“大乱の時代”になり中東の内戦、欧州の難民、イランとサウジの対立、中国や東南アジアの景気低迷、北朝鮮の核開発など、世界はどこも不安定で将来に不安をもつ。しかし、中央アジアイスラム国ながら年7~8%の成長を遂げており、治安も良く街は20年前と比べ見違えるように綺麗になった。今回の訪問は本田財団(ホンダ自動車)とウズベク政府が“エコテクノロジー”のシンポを開いたものだが、会場は車、農業、水などさまざまの展示が100以上あり、資源だけで生きるのではないウズベキスタンの未来構想と覚悟が伝わってきた。同国へは日本からは先述の商社やいすゞのほか、いくつかの中小企業が進出しているが、近い将来に中央アジアは中国の“2つのシルクロード”構想とからんで人口1億人の市場を形成すると予想される。大航海時代以降、忘れられていた中央アジアに世界の熱視線が注がれていることに、私たちも注目しておいた方がよい。
TSR情報 2016年6月1日】

ナボイ劇場建設秘話については嶌が昨年9月末に上梓した「日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた」に記しておりますので、よろしければ合わせてお読み頂けると幸いです。