シルクロードの日本人伝説
小さい頃から中国大陸、中央アジア、シルクロード――といった言葉に夢やロマンを感じていた。私は1942年に中国で生まれ、1年ほど上海で暮らしたことや、父も新聞記者で中国やアジア地域を駆け巡り、時々取材の話などを聞いていたためだろう。私と母は敗戦間近の1944年末に帰国しているが中国滞在中の記憶は全くない。時々、中国にいた頃の写真を見て記憶を辿(たど)るのだが何も覚えていない。
母は、当時としては飛んでいる女性だった。女子専門学校を卒業後、京都のデパートの宣伝部に勤務。アメリカ行きを望んだが日米関係の悪化により、北京へ渡り、北京の中学校で中国人に日本語等を教えていた。そこで父と知り合って結婚したが、今風に言えば”デキちゃった婚”だったのではないかと思っている。
そんな家庭環境もありわが家には中国関係の書籍がかなり多く、それらの背表紙を見ているうちに興味をもったように思う。宮崎滔天(みやざきとうてん)の「三十三年の夢」やヘディンの「さまよえる湖」などを読み、ますます大陸にロマンを感ずるようになった。
中国には記者となり、1970年代に初めて訪問。以来、仕事や旅行で3~4年に1回は訪れたが中央アジアはまだ遠かった。ウズベキスタンに初めて足を踏み入れたのは96年。アジア開発銀行の総裁を務めた千野忠男(ちのただお)さん(元大蔵省財務官)の話を聞き、俄然(がぜん)興味が湧いた。ウズベクは91年にソ連から独立し、国家づくりのモデルを日本に求めたという。若い志士たちが奔走し途上国から近代国家をつくり、欧米先進国に追いついた様子をみて”見習うべきは日本だ”と思ったようだ。
ウズベクは数千年前から欧州と中国をつなぐ真ん中に位置し、東西の文物、文化、学問、人間の交流の結節点にあった。天文学や数学、織物文化などに優れ、欧州やインド、ペルシャ、トルコ、中国、モンゴル、ロシア人などの交易が行き交い、16世紀の大航海時代が来るまでは世界の文化の中心的存在だった。しかしその後、鉄道や飛行機、宇宙の時代が到来するにつれ中央アジアの存在感は薄れてゆく。
日本との関係では第二次大戦後、満州で捕虜となった日本の航空工兵が首都のタシケントに、ソ連の四大オペラハウスといわれるナボイ劇場をウズベク人と共に47年に完成させ、この伝説的秘話が語り継がれてきた。66年にタシケント市が全壊する大地震に襲われるが、ナボイ劇場は凛としてその美しい姿をとどめた。そして、中央アジア全体に日本人の仕事ぶりや勤勉さ、美徳が伝えられ、有名な観光的建物となった。今なお、捕虜になっても後世に恥を残さないような建物を作ろうと決意し、完成させた約5百名の日本兵の伝説が今なお伝えられているのである。
【国立民族学博物館 編集・発行『月刊みんぱく』2016年8月号に掲載】
画像は、本コラムに登場するナボイ劇場正面。
この日本人伝説を描いた「日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた」を昨年9月末に角川書店より上梓しました。1年近く経った今でも、「冒頭から感動した」など読まれた方からさまざまなお手紙を頂いています。
まだお読みになっていない方は、この日本人伝説をぜひお読み頂けると幸いです。全国津々浦々の図書館に入荷頂いています。