時代を読む

ジャーナリスト嶌信彦のコラムやお知らせを掲載しています。皆様よろしくお願いいたします。

昨日 TBSラジオ『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』ゲスト:「グレートジャーニー」探検家で医師の関野吉晴氏 1夜目

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スタッフからのお知らせです。
昨日のTBSラジオ 
『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』(21:30~)はテレビ特番『グレートジャーニー』でおなじみの探検家で医師の関野吉晴氏をお迎えした1夜目の放送音源が番組サイトに掲載されました。期間限定でお聞きいただけます。

アマゾンで出会った先住民族の人たちとの関野氏流の接し方や、イギリスの考古学者が「グレートジャーニー」と名付けたルートを、徒歩や自転車、カヌーなど、自分の脚力と腕力だけで逆向きにたどりたいと思って始めた旅についてにつきお伺いしました。

次週も引き続き関野氏をゲストにお迎えし、「グレートジャーニー」として南米からアフリカまでを自転車などで踏破。その後も「新グレートジャーニー」として日本列島に来た人々のルートを、丸木舟などでたどったこられた探検家としての壮絶な人生観につきお伺いする予定です。今回、三夜続けてのご出演の予定です。

関野氏が上梓された書籍の一部をご紹介いたします。合わせて参照下さい。

香港を窒息させてよいのか

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 香港の騒乱が収まらない。香港人の中国政府への抗議デモは、3月31日の最初のデモに1万2000人が参加した後、続々と増え200万人に膨れ上がった。その後も常時40~50万人が参加し、8月13日になると香港国際空港に若者数千人が座り込み、欠航が相次いだ。学生たちは「今引いたら香港の締め付けが強まりデモすらできなくなる」と危機感を強めているのだ。一方で香港・中国両政府は、「今の騒動はデモというより一種のテロだ」と言い、武装警察を待機させ威嚇している。
 
 抗議のきっかけは犯罪容疑者を中国本土へ引き渡すことを可能にする逃亡犯条例の改正問題である。容疑者を本土へ引き渡すようになったら、公正な裁判は期待できず、香港へ戻ることもできなくなるのではないかと考え抵抗を試みているのだ。

 香港は中国南部の珠江デルタ地区に位置し5000年前の遺跡なども発見されている地区である。中国王朝時代には紀元前に秦朝、唐の時代には南海貿易の貿易港として栄えた。明朝時代の1500年代になるとポルトガル人が来航しているが放逐。清朝時代に入ってからはイギリスの東インド会社がアヘンを清朝に売り付けようとし、1830年アヘン戦争が始まりイギリスは香港島を占領。以後香港はイギリスに譲渡された。

 その後、第二次大戦中は日本の統治下に入るが、大戦終了後再びイギリスと中国の話し合いにより2047年までイギリス統治下に入ることで合意した。交渉にあたった当時のサッチャー英首相は”将来にわたる香港統治”を求めたが、鄧小平氏に断られる。サッチャーはこの回答にショックを受け帰路の階段で足を滑らせたという逸話があり、英国の衰退、中国の勢いを象徴する初期のエピソードとして語り継がれている。

 今回の香港動乱は、そんな不満の爆発とみることができる。欧米諸国は香港市民の運動を支援しているが、習主席は「これは中国の内政問題だ」とはねつけている。天安門事件の悪夢が去来しているのだろう。

 ただ中国にとっては、片方で米中貿易戦争を抱え、ジワジワと中国景気に悪影響を与え「人民元安」が進行して輸入物価も高まりつつある。トランプ米大統領は貿易戦争を絡ませながら自由化、民主化を求めるというディール(取引)作戦を匂わせている。

 香港は社会主義国家中国が西側の経済思想、文化、自由化の空気を取り入れていた唯一の窓口だった。その香港を締め付けるということは中国が今後ますます内に閉じこもる結果をもたらそう。香港を死なすことは中国と世界にとっても決してプラスになるまい。
【財界 2019年9月24日号 第503回】

※本コラムは8月下旬に入稿しております。

参考情報:
 香港のデモの近況としては、10月1日に中国が建国70周年を迎える付近でデモが激化しはじめ、29日に香港の湾仔地区で警察がデモ参加者やジャーナリストの一団に向けてゴム弾を発射し、インドネシアのジャーナリストヴェビー・メガ・インダー氏が取材中に防護ゴーグルにゴム弾が当たり、右目を失明。

 さらに、建国70周年を迎えた1日の抗議活動では、棒や火炎ビンなどを持った参加者が、香港各地で警察と衝突。同日には、警察の実弾発砲で高校生が負傷。警察は全体で269人を逮捕し、1日の逮捕者数としてはデモ開始以来最大。

 また、政府が4日に「緊急状況規則条例」の適用を検討する方針であることが3日、複数の関係筋の話で明らかになった。条例の下、抗議活動の際に参加者がマスクなどで顔を覆うことが禁止される可能性もある。

 


画像:フリー写真素材ぱくたそ(c) unific

【10月19日】日本ウズベキスタン協会主催「嶌信彦の出前講座」を開催

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スタッフからのお知らせです。

嶌が会長を務めるNPO法人日本ウズベキスタン協会の主催による嶌信彦の出前講座」を19日に開催いたします。

出前講座は、嶌が時流の政治・経済・社会問題等の話題を分析・解説するものです。多くの方のご参加をお待ちしております。

第2回の開催概要

日 時:2019年10月19日(土)14:00~16:00、開場13:40
テーマ:①ウズベキスタンから帰って―30~40年後にドバイを抜くか?  
    ②なぜ関電トップは元助役の言いなりになるのか?   
    ③岐路に立つ香港 
    ④強いイランの秘密 
    ⑤落ちぶれた大英帝国
    ⑥修復が難しい日韓
    ⑦その他  

 場 所:日本フードサービス協会会議室
    東京都港区浜松町1-29-6  浜松町セントラルビル10F
   *JR「浜松町」駅北口下車 北口改札を出て前方左手 (世界貿易センタービル向かい側)、1階に薬局 Tomod’s(トモズ)が入っているビル (徒歩2分程度)
   *都営地下鉄大江戸線浅草線 「大門」駅下車 B4出口から出て通りを渡った向かい 

定員:   50名(事前予約制)

主 催:  NPO日本ウズベキスタン協会

申し込み: 「出前講座申し込み」として「名前」「連絡先電話番号」を記し、メール(jp-uzbeku@nifty.com)または電話( 03-3593-1400)、FAX(03-3593-1406)にて日本ウズベキスタン協会協会事務局までお申し込みください。
※会場へのお問い合わせはご遠慮下さい。

日曜(6日)TBSラジオ『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』ゲスト:「グレートジャーニー」探検家で医師の関野吉晴氏

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スタッフからのお知らせです。
日曜(6日)のTBSラジオ 
『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』(21:30~)はテレビ特番『グレートジャーニー』でおなじみの探検家で医師の関野吉晴氏をお迎えいたします。

アマゾンで出会った先住民族の人たちとの関野氏流の接し方や、イギリスの考古学者が「グレートジャーニー」と名付けたルートを、徒歩や自転車、カヌーなど、自分の脚力と腕力だけで逆向きにたどりたいと思って始めた旅についてにつきお伺いする予定です。

関野氏が上梓された書籍の一部をご紹介いたします。合わせて参照下さい。

9月1日 TBSラジオ『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』ゲスト:世界的に活躍されている写真家の石内都氏 一夜目 放送内容まとめ

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スタッフからのお知らせです。

TBSラジオ 『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』(日曜 21:30~)は様々な分野で志を持って取り組まれている方々をゲストにお招きし、どうして今の道を選んだのか、過去の挫折、失敗、転機、覚悟。再起にかけた情熱、人生観などを、嶌が独自の切り口で伺う番組です。2002年10月に開始した「嶌信彦のエネルギッシュトーク」を含め17年目を迎えた長寿番組です。

9月1日は写真家の石内都氏をお迎えした一夜目。通算884回目の放送でした。

以下、放送内容の抜粋をお届けします。

■写真家になったきっかけ
写真家になろうと思っていたわけではなく、環境が写真にむいていた。若い時はすごく暇でやることがなく、28歳ごろに友人からカメラ一式をもらい、たまたま自宅に暗室まで全てあった。使わなければゴミだが、使えば全て道具になるので使ってみようというのがきっかけです。

美術大学に入ったのは、高校の時に東京オリンピックがあり、その時初めてデザイナーという職業が表に出た。その前は図案家といわれていて、デザイナーとは何だろうと思っていると亀倉雄策さんの東京オリンピックの有名なポスターを見た時に、「わぁ、カッコイイなぁ!」と感銘を受けた。

亀倉雄策氏の東京オリンピックポスター

亀倉雄策氏の東京オリンピックポスター

こういう職業があるなら私もデザイナーになろうと思い美術大学に入学した。始めは平面デザイナーを目指したが、なかなかうまくいかず、ぜんぜんむいていなくて・・・

2年になると織科という全く関係のない織物の学科に行き、4年までいたが挫折して結局学校は辞めてしまった。その後、結果として写真に出会った。

■織りと写真の思わぬ共通点
初めて暗室に入った時、すごく懐かしい匂いがした。それはなぜかと言うと、私は学生時代に白い糸を染め、織り機にかけ織物をやっていた。その糸を染める時に色止めという薬を使う。それは、植物性の糸に塩、動物性の糸には酢酸を用いるので、写真は染物に近いなと思って、「これは、結構面白いかもしれないな」と感じ、暗室作業がすごく好きになった。

私は写真のことを全く知らなかったので、間違いながら自力で覚えていった。写真の学校にも行かず、友達に写真をやっている人がいたので、その友達に聞いたりして、いろいろと失敗しながら、気がつくといつの間にか写真家になっていた。

やはり写真の暗室作業が好きだったから、長続きしたのだと思います。私は、写真を撮りたくない。自分で現像もしているので、沢山撮ると大変で。だから、なるべく写真は少なく撮って、撮影をなるべく早く終わらせるというのが私の信条なのです。だから、今でも撮影枚数は少ないです。フィルムをなるべく少なく最低限の本数しか持っていかない。そして、フィルムが終わったら、そこで撮影をやめます。

■写真の魅力
カラー写真は大半をラボ(写真出力を行なうところ)に出しているので、現像された写真を見ると撮影の現場で実際に自分が見た世界と全く違う。その空間でいったい何を撮影していたのかということは、撮影中は忙しいから無意識。なるべくサッサと撮りたいので、実際の写真を見た時に考えるのです。

「私はこういうことを見たかったのかな」といったことを考え、そういう時間軸がどんどん変わっていくのが写真の面白さ。それは今でも同じなのです。いわゆる写真家という人は撮影がみんな大好きで楽しくやっている方が多いが、私は写真を撮るより現像している時の方がものすごく楽しい。

■暗室はトリップ
それは多分、織物をやっていたことにも関係があるんです。写真は水仕事で、白い布を染めるような感覚で写真もプリントする。私の写真はけっこう大きく、ロールプリントといって幅1m20cm、20mのロールになっている大判のプリント用紙を切って、自ら独りでプリントしている。暗室は密かで、何ともいえない。世界と分断されながら、写真の中に世界が写っている感覚はすごいゾクゾクして、ものすごく楽しい。別の世界に飛んでいくようなある種のトリップ状態のような感覚がある。

私の暗室はちゃんとした暗室として作ったものではなく、普通の部屋を真っ暗にして目張りをしたもの。赤いセーフティライトを「トットコ」つける感覚がなんともいえず、ゾクゾクして・・・・

まあ、そういうふうにして写真家になったわけです。

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多摩美時代の学生運動
学生時代は全共闘時代の真っ盛りの時代。私もバリケードの中に入っていました。機動隊が介入し、1970年にバリケードが解除された。多分、(大学を卒業しないとつけないような)職業には就かないだろうと思い、卒業証書はいらないなと大学を辞めてしまいました。(嶌も同じ世代で、バリケードの中に入っていた。)

全国の大学に学生運動が波及して、多くの美術大学でも学生運動が盛んだった。私が通っていた多摩美多摩美術大学)の場合は最後まで運動を続けており、70年10月21日の国際反戦デーの拠点になっているというウワサがたち、それで機動隊が入った。拠点でも何でもなかったんですけどね・・・

バリケード内での過ごし方
バリケードの中に織り機を置いて、夜中に織物を織ってました(笑)
私たちは黒いヘルメットをかぶって、ノンセクトといいますか、バリケードをやっていても中でやることがないので、自主授業をしていました。既成の授業はなく、学校は学ぶところだから当然、それらも含め自主的に学んでいくということがどういうことかを考えますよね。学校は広いし、時間もいっぱいあって。その時に学んだことが、今の私を作っています。ものすごく、当時の影響があるなと。

私は大学で映画研究会に入っていて、隣の部室が演劇研究会だったので合同でいろんなことをやっていた。演劇の練習や映画を作るといったことをやりながら、あとは本を読んだりして過ごした。まあ、普通の大学とはちょっと違って、私は参加しませんでしたが展覧会を開催している人たちもいたり、いろんな形で空間を使うことをやっていました。

■学生時代の転換点
いろいろ考えてみると、私はそれほど政治的な芽生えはなく、ただ間違っていることは間違っていると思っていた。例えば、その時に大学の移転闘争などがあり、私達の知らぬ間に新たな校舎を作っていたり、授業料の値上げなどに対するごくごく普通の闘争だった。

その中で、いろいろあって逆に私はいったいその時に何を達成したのかなという反省もあった。そして、70年に入ってからウーマンリブが台頭し、田中美津さんが出てくるようになり、結局今まで自分がやってきたことをどのように考えて、これから先どう生きていくかということを思い、私はそこで学生運動をやめてしまうのです。

写真に出会って、その時やってこられなかったことや自分がやり残したことも含めた表現として、写真は今ものすごくやりがいのあることになっていると思います。

70年前のウーマンリブが出てくる前の女性は、男性を助け、いつも男性の後ろで頑張っているという感じだったが、そんな女性たちのこれまでの不満やいろんなことが、それを境に全部新しく出てきた。だから、私はその流れでひよってしまった。そして、その後写真に出会って、あの時代にできなかったことなどを含めながら写真を少しずつやってきて今に至っています。

■改めて今注目された『百花繚乱』展
一番初め、写真を始めた時、『絶唱横須賀ストーリー』という個展の前、76年に女性10人を集めて『百花繚乱』展という企画をしました。実は、今それをアメリカ人のジャーナリストがものすごく熱心に調べているんです。女性10人で男をテーマに写真展をやったが、当時の写真界は全く無視、どこにも記録が無い。テレビと平凡パンチの取材だけだった。不思議な時代だったんです。

私は男のヌードを撮った。せっかくやるなら女が男を撮るという、しっかりしたテーマがないとダメだろうと。女はいつも見られる対象で、それを逆手にとって見てやろう。男を見るということで女を始めなきゃいけないんじゃないかと意気込んでやったんだけれども・・・

それが、今になってアメリカは歴史をすごくちゃんと調べる人たちで、そこをきちんと調べているんです。まあ、歴史がないからということもあると思うけれども。そのジャーナリストと日本人が共同で手がけている本があり、その調査で来た際に女性2人で同人誌を作っていたことが判明。その流れで『百花繚乱』展の女性10人が男をテーマにした展示をしたことがあるということが歴史的にドンドンわかってきて、今になって解明しようとしている人がいるというのはすごく面白い。

ウーマンリブの流れや私がウーマンリブに参加しなかったということも含めながら、当時ちょうど30歳でそのことを意識しながら、このままじゃいけない、これからどうやって生きていくのかというケジメにしたいと思いこの展覧会を企画した。

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■初期三部作登場のきっかけ
絶唱横須賀ストーリー』『APARTMENT』『連夜の街』初期三部作は私の足元をちゃんと見ようと思って撮った写真。私は6歳から19歳まで横須賀に住んで育った。その前は群馬県桐生で生まれ、横須賀に行き初めて基地を見た時の驚きがものすごくあって、いったいこれは何だろう。光が輝いているわけです。ただ、何かちょっと危険な感じがすごくあって、ちょうど思春期と重なり、身体的にも女になる時期で、やはりこの街が私が女であることを教えてくれた。

米軍兵による強姦事件は日常茶飯事でも治外法権で事件にならず、日本の警察は調べない。事件が表に出たのは、沖縄の95年の事件です。あの時、初めて強姦事件として公表され、犯人も捕まった。アメリカは占領しているから何をやってもつかまらないような街。私は、やはりよそ者でそこで生まれていないから、いろんなことが見えた。そこで生まれ、住んでいると見えないこともある。私はずっと違和感のようなものは何だろうという思いを抱いていて、東京に出て、写真を始めて「さて、私はいったい何を撮ろう」と思った時に、やはり私にとって遠い街は何処かと考えた。それが、横須賀だった。

■基地の街『横須賀』が示した自分の女性性
日本でありながら日本でない。それも含め、わだかまっている自分の精神的なもの、思春期の痛みや傷を受けたことに対し、敵討ちをしようと。私自身は危ない目にあったことはなかったが、環境的にはいろんなことがいっぱいあって、あの当時の横須賀は気軽に踏み入ることが出来る街ではなかった。今は普通に歩けるようになった『どぶ板通り』は、その当時は女性が歩いてはいけない通りで、ここへは絶対に行ってはいけないと言われていた。しかし、その理由を大人たちは教えてくれず、子供には理解できなかった。そうすると、「何だろう?」と考え始める。「何か変だな」、それが私が女性であることを教えてくれたことでもあり、そこから始まっているんです。

それで、はじめてきちんとしたものを撮るなら横須賀で、自分の足元をきちんと見ようということで誕生したのが『絶唱横須賀ストーリー』です。そして、私達家族4人は、横須賀の小さなアパートに住んでいたので、それも含めて撮ったのが『APARTMENT』。赤線(※)の由縁は高校の通学路に赤線があり、その入口は何ともいえない雰囲気で、とにかく空気が違う。毎朝、毎夕、気になってしかたがないが、誰も教えてくれない。ある日、赤線の入口だということがわかった。写真を始めてすぐにそこに行ったが、シャッターを押すことはできなかった・・・

基地の街が自分の女性性を教えてくれ、赤線はどこにでもあるが、はっきりした売春宿として存在している。初期の三部作は私にとって運命的に撮影しなくてはならないテーマだった。赤線は横須賀だけでなく全国まわって、いまだに撮っている。

(※)赤線:売春を目的とする特殊飲食店街。警察などの地図にその地域が赤線で示されていたためそのように呼ばれる。GHQにより46年に公娼制度が廃止された際も特例措置として地域を限定し続けられたが、58年廃止。『連夜の街』は全国各所の廃墟となった赤線跡(元遊郭)を記録した作品集。

■よそ物的視点
横須賀は出発点であると同時に、東松照明さん、森山大道さんをはじめ、いろんな男性の写真家が横須賀の写真を撮られているが、それは私の中の横須賀ではないという思いがあった。この方々が撮ったのはどぶ板通りで、あれはアメリカで横須賀ではない。本来の横須賀の姿は、実際に自分が体感してきたからこそ、私にしか撮れないという思いも含め、横須賀をテーマに撮ろうと思った。私は横須賀の街が大嫌いで、本当に嫌悪感というかゾッとするほど嫌な街だった。好きなものを撮るのは普通のことで、そこには高校時代、反戦基地闘争が盛んだった時代に対する思い入れもすごくある。

いつも雨が降っていて、基地の正面にデモ隊がいる風景をいつもバスの中から見ていた。友達の父も反戦運動をしていたり、私はよそからきて「よそ者的な視点」で見ていて同化できなかった。横須賀に対する、その距離感のようなものを写真に収めるという思いがあり、横須賀を撮り始めた。

■母への思い
今、ちょうど母の歴史を調べているが、母は当時としてはめずらしく、昭和9年(34年)に18歳で大型2種の免許を取得している。自宅には母がダッチブラザーというアメリカの大型車を運転していた写真が残っている。父が出稼ぎで横須賀市北部の追浜に行っており、私の小学校入学をきっかけに家族一緒に横須賀で暮すことになった。横須賀移住後、父の会社で米軍の運転手として女性のみを募集しており、母は父と一緒に面接を受けに行った。5人の募集だったが、3人しか受けず全員合格。当時、アメリカ車ジープを運転していた。

今、聞くとカッコイイと思うが、現実はものすごく差別された。父の親戚に「雲助(※1)の娘」と言われたこともあった。手に職を持ち、きちんと女性がイキイキと働いていて、私は母を尊敬しているが、世間の目はそれはそれは、すごかったのではないかと・・・

 

(※1)雲助:江戸時代、宿場や街道で荷物の運搬や川渡し、駕籠(かご)などを担ぐ職業の人をさす。定住せず住所不定な人が多かったことから、このように呼ばれていた。当初、人里離れた所で盗賊まがいの行為をした者を侮蔑した言葉として使用していたが、次第に宿場人足・駕籠かきと混同されるようになった。

一夜目は終了。二夜目は後日掲載します。

参考まで石内氏の写真集の一部をご紹介いたします。合わせて以下リンクを参照下さい。



なお、石内氏の個展「石内 都 展 都とちひろ ふたりの女の物語」が11月1日から来年1月31日まで東京・練馬のちひろ美術館にて開催されます。本展覧会では、新たにいわさきちひろ氏の遺品を撮り下ろしたシリーズ「1974.chihiro」29 点の初公開とともに、自身の母親の身体や遺品を撮影したシリーズ「Mother's」も展示が予定されています。
詳細は以下リンクを参照下さい。

29日 TBSラジオ『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』ゲスト:世界的に著名な建築家 槇文彦氏 音源掲載

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スタッフからのお知らせです。
日曜(29日)のTBSラジオ 
『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』(21:30~)
サイトに世界的に著名な建築家の槇文彦氏をお迎えした音源が掲載されました。来週水曜正午までお聞きいただけます。

建築に興味をもたれた理由や、モダニズム建築を海外で学んでこられて今感じること。代官山のヒルサイドテラスや、幕張メッセ、NYワールドトレードセンター跡地など、奇をてらわず、自然体で、洗練された建築を生み出してこられたと仰る建築家の美学につきお伺いしました。

槇氏が上梓された書籍の一部をご紹介いたします。合わせて参照下さい。

次週は、「グレートジャーニー」でおなじみの探検家で医師の関野吉晴氏をお迎えする予定です。

AIで巻き返しできるか

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 日本で「人工知能(AI)を研究し、事業に生かそうとする企業が急速に増えている。数多くのデータを超高速に複数のレベルで分析し、複雑なシステムの理解や独自のシナリオの作成などに活用しようとしているのだ。ただAIとの間で、人間同士のような対話を行ない、特定の仕事について有効な意思決定をある程度支援することまでは出来ても、人間にとって代わる役割をAIが果たすことについては日本は決定的に遅れているという。将棋、囲碁のAIや自動運転の技術など、一つのことに特化した人工知能については人間に匹敵する能力を持つAIは実現できつつあるが、人間のようにあらゆる場面などを想定し人の振る舞いと同じように何でも出来る人工知能はまだ実現されていないからだ。

 コンピューターを活用して短時間で推論したり回答を見出す手法は1960年代前後から行われていた。ただ、高度な計算で問題解決を試みることはできても、AIには人間に備わっている常識がなく、突拍子もない結論を出すためAIブームの熱は一時的に冷え込む時代を迎えた。しかし最近のAIは自ら学習する機能(深層学習)やビッグデータを分析することで画像や映像から必要な情報を取り出し、ある程度のことを考えることが出来るようになってきた。その結果、医療や小売、スポーツ、製造などのアプリを組み込むことで用途が広がってきたのである。

 人間はインターネットを活用することで様々な知識、応用を広げたが、最近のIoT(モノのインターネット)では、画像を見てロボットに遠隔医療を行なわせたりすることも可能になると予測されている。こうした一つのことに特化して奥を深める人工知能は、「特化型人工知能」と呼ばれ、この分野と範囲は次々と広がっている。むろん、今後は人間を超える知能を持った人工知能を生み出し、さらに人間より賢い人工知能の開発によって人間には想像しにくい人工知能を生み出すことも可能といわれ、2050年までにその域に達するとも予想されている。AIが人間の知性を超え、人間の想像を超えた世界を作り出してしまうことで「シンギュラリティ(技術的特異点)」といった言葉まで登場している。例えばAIを操作する攻撃型ドローンを人間が遠隔地から操作し実戦導入すると、ドローンが攻撃判断を行ない“自動戦争”に発展する懸念すらあるのだ。

 製造業界では、データを経済に生かすデータエコノミーが中核技術になるといわれ、最先端の研究を常に手がけておかないと経済競争に置いていかれるだろう。しかも日本企業では20年代半ばに6割の基幹システムが老朽化するといわれ、AIやビッグデータを使う企業はますます遅れることになる。にも拘わらず日本のシステム投資やデジタル化への投資は伸びておらず保守にばかりカネをかけているのが実情だという。

 国際的調査によると世界でAIのトップ級人材は2万5千人ほどいる。そのうち半分はアメリカ、次いで中国が1割、さらに英、独、カナダなどと続くが日本は6位で3.5%にすぎない。しかもAI研究に必要な多様性でも見劣りがするという。このため、AIの重要性に目をつけた企業は独自に人材獲得や好待遇で確保に走り始めている。AIの研究開発、投資は今後の日本企業の競争力を左右することになりそうだ。
【電気新聞 2019年9月2日】

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