~成長するシルクロード経済圏~ ――新興国の人々の明るさ――
5月のG・Wをはさんで2回の海外旅行を行った。一つはシルクロードの中心地にあたり、成長めざましいウズベキスタン、もう一ヵ所が数年ぶりに訪れた北京だ。新興国は一年ごとに街の表情が変わるといわれるがウズベキスタンも中国も様変わりで、日本にはない息吹とエネルギーを感じた。
(道中の飛行機より山々を望む)
私が初めてウズベキスタンを訪れたのは、1996年で独立(1991年)間もない時期だった。親日国で知られ紀元前から東(中国)・西(ローマ)を結ぶ貿易路として栄え、文化のるつぼとなっているオアシス国家である。国土の多くは砂漠地帯だが、東西を結んで交易をしていた隊商たちが寄り、そのオアシスの地を争奪する興亡を数千年にわたって繰り広げてきた歴史をもつ。無数の世界遺産、100に余る民族、さまざまな物語と英雄たちを育んできた土地と道だ。
――東西を結んだ交易路――
もともとはドイツの地理学者リヒトホーフェンが著書の中で「絹の道」と呼んだのが始まりとされる。絹は古代地中海では産出されず中国から運ばれてきた貴重な品物として扱われた。東アジア、南アジア、西アジア、ヨーロッパを結ぶ交流の道は「草原の道」と「オアシスの道」があった。
(昔のままのシルクロード)
前者は中国北部の草原地帯からモンゴル高原、アルタイ山脈、ジュンガル盆地、カザフ高原を経てアラル海、カスピ海を抜け南ロシア草原地帯に至る。後者は内陸アジアのオアシス都市をラクダの隊商が荷物を運んだ。オアシスの都市国家は中継貿易で栄え東西の文明が交差してさまざまなシルクロード文化を築いたのである。
このオアシス都市、交易路をめぐってさまざまな民族、王国が紀元前7~8世紀以前から覇権を争ってきた。古くはペルシャ系のスキタイ、ギリシャ・マケドニアのアレキサンダー大王、匈奴、バクトリア朝、大月氏、ペルシャ、中国(漢)などで、紀元後になると後漢、鮮卑、クシャーン朝、パルティア、突厥(テュルク)、ウイグル、セルジューク朝、ティムール王国、蒙古などなどさまざまな王朝、騎馬民族が興亡を繰り広げた。
この間、三蔵法師がインドへ仏教を学びに行き、教典を持ち帰った。その教典は後に日本へ渡り、現在の日本の仏教の源となる。その意味でシルクロード文化の最終地は日本でもあった。ただシルクロードの宗教の中心はイスラム教となっている。また文化では建築、織物、天文学、文学、詩歌、宗教、哲学など現代文化の基盤が次々と築かれていた。
そのシルクロードの中心に位置していたのがヒヴァ、ブハラ、サマルカンド、タシケントなどを擁するウズベキスタンなのだ。15世紀以降の大航海時代が来るまで東西を結ぶ交易路は陸が中心で、シルクロードこそが大動脈だったのである。
――ウズベキスタンに眠る資源、人材――
私が初めてウズベキスタンを訪れたのは、旧ソ連邦から独立して5年目の1996年。TBSTVの「報道特集」で「知られざる親日国・ウズベキスタン」と題する番組を作るためだった。
ウズベキスタンはカザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、キルギス、アフガニスタンに囲まれた内陸国で、しかも二つの国を通らなければ海に出られないという不利な地理的条件の下におかれている。
このため、金や石油・天然ガス、ウラン、レアメタルなどの地下資源が豊富で綿花の栽培も世界の5指に入るほどだが、輸出に向けたパイプライン、道路、輸送システムなど運輸インフラの整備が遅れていたため、カザフスタン他の中央アジア諸国に比べ成長が遅れていた。
しかし、その一方で人口は3,200万人と中央アジア随一で教育水準も高いため、欧米やロシア、中国などの大国は最も重視している国となっている。
――急成長、地政に世界が注目――
そのウズベキスタンがここ2~3年で7~8%の急成長を遂げ始めた。天然ガス輸出のパイプラインが完成し、ロシア、中国などへ送り始めたことや道路、鉄道、通信などのインフラが整い始めたからだ。
人的資源は優秀なため、自動車とその部品関連、繊維、機械、食品加工などの企業が続々と増えだした。自動車では大宇(韓国系)を買収したGMが小型車を生産、伊藤忠といすゞの合併会社がバスの生産を行っている。ドイツ系の中小企業も70~80社に及ぶようで欧州企業も中央アジアの中心国として注目している。
シルクロード観光には、日本よりもフランス、ドイツ、イタリア人が目立ち、私たちのグループ(NPO日本ウズベキスタン協会=1997年創設)とあちこちで行きあった。
――日本に敬意。安倍首相は日本人墓地訪問を――
私はウズベキスタンを4~5回訪れているが、3年前と比べても見違えるような街並みになっていた。タシケント、サマルカンドなどの大都市には高層ビルが立ち並び、広い道路が整備されていたし、外資系ホテルが増えタシケント―サマルカンド間には新幹線が走っていた。地方都市にも新しい住宅の建設が目立ち、町がぐーんときれいになっていた。
昼食会をともにしたシャイホフ商工会議所会頭(元対外経済担当相、初代在日本ウズベキスタン大使)は「金融・貿易システムの改革や外資への優遇措置も次々導入している。ウズベキスタンは日本をモデルとして国づくりを行ってきたので、日本の企業、特に中小企業にたくさん来てほしい。国づくりの基盤は中小企業の発展にあると考えているからだ」と熱弁をふるっていた。
(左よりシャイホフ氏と嶌、ガイドのシュンコル氏/日本ウズベキスタン協会設立15周年を祝うケーキをご用意いただきました)
第二次大戦の敗戦で満州にいた日本兵は、旧ソ連軍の捕虜となりシベリアへ50万人を超える人が送られた。その時シベリアだけでなく実は中央アジアにも数万人が捕虜として移送され、ウズベキスタンには約10カ所の収容所があった。その収容所のうち、タシケントの第4収容所にいた約450人の日本人は今なお建つオペラハウス「ナボイ劇場」を1947年までに建設したことで、ウズベク人から敬意をもたれている。
1960年代に直下型大地震が発生しタシケント市内の建物はほぼ全てが崩壊した。しかし日本人がウズベク人と共同して携わったナボイ劇場は震源地から2~3kmしか離れていなかったがほぼ無傷で残り、ウズベク人は「さすが日本人の建てた建物は素晴らしい」と語り継がれてきたのだ。
そのタシケントにウズベキスタンで亡くなった方々の日本人墓地がある。ウズベク人が管理し、毎日のように掃除もされている。私達が墓参りに行った時も4~5人の女性が墓の掃除を行っていた。
安倍首相はこの夏か秋に中央アジアを訪れる計画をもつというが、その際は是非この日本人墓地をお参りしてほしいものだ。外地で無念の思いで亡くなった人を見舞うことこそ、本当に大戦の死者の供養になるのではないか。その墓の近くにあった日本人資料館はここ1年閉鎖されたままだともいう。この資料館の再開にも努力してほしいものである。
(タシケントの日本人墓地を清掃して下さっております)
――中国もまだ熱気。日本の60~80年代――
私はウズベキスタンに行く前に数年ぶりに北京を訪れた。今回は北京の生活、ライフスタイルを見たいと思い、古い街並みの残る胡洞地区、ブランド店が集まる地下街、地下鉄、100円ショップや偽ブランドの集まる地区、工場跡地を現代美術の展示場にした739街区、ビルの立ち並ぶオフィス街、若者たちでにぎわう原宿のような通り、綿・絹などの布の卸問屋街――等々を歩き回った。
高度成長を終え、ウイグル地区ではテロ(?)事件が相次いでいたようだが、依然中国人の熱気はすごかった。まだまだ中国人の成長熱、欲望は衰えていないと感じた次第だ。ウズベキスタンでガイドをしてくれたシュンコル君も底抜けに明るく将来を夢見ていた。成長途上にある国の人々は息づかいまで違っているな、と実感し、日本の1960~1980年代の雰囲気を思い出させてくれた。
【TSR情報 2014年5月29日】
※ウズベキスタンを訪れた写真は、TSR情報には掲載されておりません。ブログ向けに追加したものです。