トルドー加首相の怒り
「カナダが招かれないということはINSULTING(侮辱的)だ」(1月16日付朝日新聞)
これは先日公開された外交文書の中のひとつに出てきたものだ。発言者は1975年11月当時のトルドー・カナダ首相である。
トルドー首相が怒ったのは、第1回主要国首脳会議の参加メンバーから外されたからだ。当時の参加国はフランス、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本、イタリアの6ヵ国。その後サミットのことを「G7(グループセブン)」と呼んだが、第1回はG7ではなくG6だったのである。
トルドー首相は、同時に「日本とアメリカがもう少し何とかしてくれたら……」とも述べており、”友達甲斐がない”という気持ちを日米にもっていたようだ。
実は私はG7サミットのほとんどを現地取材してきた(参照=文春新書『首脳外交』)からサミットの記事はいつも気になる。その後カナダがサミット入りしたことや今のカナダの国際的地位を考えると、日本は積極的にカナダ招請の旗を振るべきだっただろう。
ただ当時を思い返すと、日本は「自分がG7に呼んでもらえるか」で頭が一杯で、とてもカナダのことを考える余裕がなかったというのが真相だった。当時は三木武夫首相時代で、フランスのジスカールデスダン大統領が通貨危機(ニクソン・ショック)、石油危機後の世界の不安定化が懸念し「二度と対戦が起こらないシステムを先進国間で作りたい」と提案したことがきっかけだった。問題はどの国を呼ぶかで、当時のシュミット西独首相らと相談し、米、英、仏、独の4ヵ国でどうかとひそかに根回していた。
当時はカナダはおろか日本、イタリアもジスカールデスタン構想には入っていなかったらしい。それを知った三木首相は「何としても日本を入れてもらえ」と駐仏大使にゲキを飛ばし、米、独にも頼み込んでいたようだ。応援してくれたのはドイツで「日本は高度成長のさなかにあり日本をはずして世界経済の話合い調整を行うのはまずいだろう」とフランスを説得したのだ。英米仏対独では独が孤立するという頭もあったようだ。イタリアは要領の良さでいつの間にか参加の席を確保した。
アメリカの弟分・カナダは、アメリカが強力に主張すれば参加は可能だったと思えるが、当時のアメリカは仏の提唱したサミットに対抗心をもち、あまり熱心でなく、重きを置いていなかったようだ。それでカナダについても強く推薦しなかったのではないだろうか。
しかし実際のサミットでは、世界経済だけでなく国際政治などの分析をまず首脳特使(個人代表)たちが何度も下相談したうえ、本番のサミットで首脳同士が率直に意見交換し、共同声明を発表する段取りとなった。いわば1~2年先までの国際方針を確認、実行する会議となり世界はサミットを注目するようになるのだ。
当初の日本は参加できたことだけで「大国の仲間入りを認められた」と興奮した。参加することに意義ありといった心境だったせいか、日本の積極的発言はあまりなく、日本席は”サイレントコーナー”などと皮肉られたりした。しかしその後ロシア、G20が参加しサミットにまとまりが欠くようになるまでは、約20年以上にわたりサミットが世界を主導したのである。
アメリカはサミットの重要性に気づき早くも半年後に第2回を主催、カナダを招待して以後G7サミットが定番した。
第1回の時、フランスはカナダを招待しなかった言い訳として「会場となるパリ郊外のランブイエ城には首脳が宿泊できるような部屋は6つしかないので……」と述べた言い伝えが今も残っている。外交文書は歴史の秘密を明かしてくれる。
【電気新聞 2015年1月29日】