中小企業が危ない 迫る中国・新興国
このところ、たて続けに4~5人の中小企業の社長さんに会った。いま残っている人たちはみんな元気だ。むろん資金繰りや後継者難、人材育成などの悩みは抱えているが、これまでに一山も二山も乗り越えてきた人たちばかりのせいか、さほど暗い顔をしていなかった。少しは景気が上向いているということなのか。
「痛くない注射針」などの製品を開発して業界では有名な岡野工業代表社員の岡野雅行さんは現在85歳。「会社はあと2-3年でたたむことになるんじゃないか」といい、痛くない注射針は医療機器大手が作れるよう技術継承を考えているという。社員は10人足らずだが、みんないい腕を持っているのでどこにでも働き口を見つけられると心配していない。自分も父の経営する金型工場から50年以上前にプレス加工の会社を設立し、他人のやらない仕事を開発してきた。常に自分で新しい製品、技術などを追求していれば、たとえ数人の中小企業でも一国一城の主となって生きてゆけると信じてきたし、それを実行してきたという自負がある。
■ 急逝した父の会社を32歳で継ぐ
ダイヤ精機の諏訪貴子社長の経歴もユニークだ。95年に成蹊大工学部を卒業後、自動車部品メーカーに就職したが、2年後に父の経営するダイヤ精機に呼ばれ入社。当時は資金繰りも苦しく青息吐息の状態だったのでリストラ策中心の経営改善計画を作って父親に見せたところ半年後に自らがリストラされてしまう。
再建の道はこれしかないと考えて作成したリストラ策だったが、父にとっては一緒に働いてきた約40人の社員をリストラして再建をはかる気持ちにはなれなかったのだろうと思った。97年に退社して夫と子供と共にアメリカ転勤の準備をしていた2000年に再びダイヤ精機に戻るよう父から要請がくる。アメリカへ転勤するか迷った挙句、再び父の会社へ入社し、また同じようなリストラ策を提案したら今度は3ヵ月後に再び自らが2度目のリストラに。
ところが2004年に父が急逝すると、社員たちの要請もあってダイヤ精機の社長に就任することとなる。“この会社に決着をつけることが私の使命”と考え、32歳で社長を引き受け、アメリカ行きをやめ6歳の子供と日本に残ることに。4人の社員に退職してもらうとその効果でまもなく黒字に転換し一息つく。
■ 気がついたことは何でもノートに
その後、社員からも再建策を提案してもらい、リーマンショック時は倉庫を整理してレンタルスタジオにしたり、不採算部門をカットし、社員と交換日記を交わすなど人材育成、人材募集に力を入れる。
募集しても応募がないので調査すると、会社紹介にゲージの作成とあったので「自動車」の文字を入れたりした。1ヵ月に部品約1万点を出荷。図面7000枚を描く仕事内容だったが、ゲージといった専門用語の入った会社案内では会社の内容が伝わっていなかったこともわかり、自動車の文字を入れた途端に人が集まりだしたこともあったという。
「20代の時は言われたことをやるだけ、30代はやらなければならないことで精一杯だったが、40代になって行動に知識が追いつき、将来の夢をみるようになった」と述懐し、「40代の今が一番楽しい」という。思いついたことは何でもノートに書きつけ、まず大丈夫というところからスタートし、それを成功させるために経営計画を作ること、自分の会社の強味を顧客に聞き、そこを徹底的に伸ばすことが大事。ウチは納期がしっかりしているといわれたので、さらに短縮する努力を重ねたともいう。
いまや年に100回近く講演なども頼まれる身となり、ピンチになると燃えるタイプなので「高知城に行った時などは、大声で天下を取ってやるぞ」と叫んでストレスを解消し自らを励まし、「会社の人達が大田区に一戸建ての家を建てられるようにするのが今の夢だ」と笑う。
■ 旋盤工を50年続けながら作家に
約50年にわたり旋盤工職人として大田区の工場で働き、作家、ノンフィクションライターとして中小企業の現場をリアルに描き続けてきたのが小関智弘氏である。「錆色の町」「地の息」で直木賞候補、「羽田浦地図」「祀る町」で芥川賞候補、「大森界隈職人往来」で日本ノンフィクション賞などを受賞している。
退職するまで工場の現場で働き続け、執筆も続けてきた労働者であり異色の作家だ。「鉄は春まで匂った」などみずみずしいタイトルで、中小企業の現場や労働の姿を描いた文章は、現場で50年も働いてきた職工だっただけに他の追随を許さないリアリティと汗や油の匂いがあり、工場文学の見本とさえいわれた。
町工場には金型職人、プレス工などの部品職人がいるが、特にプレス工は1ミリ以下の製品から人工衛星の部品まで作り、まさに日本の工場、機械の現場を支えており、日本のモノづくりの象徴ともいえる人々だ。東は大田区蒲田、西は東大阪が両横綱格とされた。
小関さんが町工場の現場の様子を語る時は生き生きとしており、とても80代の人とは思えない。しかし9000以上あった蒲田の工場も今は4000を切るぐらいまでに減ってしまい、その上現在の工場の経営者は大半が70代前後で、従業員数も10人前後がほとんどだから、本当に日本の中小企業は危機的状況にあるという。2017年の休廃業企業は約2万8000社、しかし約半分が黒字なのに後継者がいないため廃業に追い込まれてしまうのだ。
中小企業の多くは後継者を見つけたり、育てたりしないうちに70歳前後になってしまうので、結局廃業せざるを得なくなるようだ。戦後の苦しい時期を少人数で乗り切ってくることに精一杯で、後継のことを考える余裕もなかった。後継者を育てるには2-3年から5年はかかるとみる人が50%、5-10年は必要とみる人は30%もいる現状からすると、やはり50代のうちに後継者のことを考えておく必要があるのだ。
経産省の試算によると、このまま後継者問題を放置しておくと2025年までに約650万人の雇用が失われ、22兆円のGDPが減少する可能性もあるとされる。
■ 中国、東南アジアの追っかけが不気味
中小企業に身を置きながら冷静に中小・零細企業を見てきた小関さんによれば、「日本のモノづくりの力はすごい。しかし今や中国や東南アジアもどんどん追いついてきているので先行きは心配だ」といい、中小企業を抱える大企業も昔のように自ら投資・開発・研究をしなくなっており、安易にM&Aに走る傾向があるのでその点も日本の技術力、企業力を弱めてしまうのではないかと危惧する。
約900万社といわれる中小・零細企業なくして日本の工業力や技術継承は危なくなることを本気で大企業や政府が考えないと徐々に基盤が弱体化し、新興国に抜かれる日が来るだろうと小関さんは警告していた。
【Japan In-depth 2018年4月27日】