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9月8日 TBSラジオ『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』ゲスト:世界的に活躍されている写真家の石内都氏 二夜目 放送内容まとめ

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スタッフからのお知らせです。

TBSラジオ 『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』(日曜 21:30~)は様々な分野で志を持って取り組まれている方々をゲストにお招きし、どうして今の道を選んだのか、過去の挫折、失敗、転機、覚悟。再起にかけた情熱、人生観などを、嶌が独自の切り口で伺う番組です。2002年10月に開始した「嶌信彦のエネルギッシュトーク」を含め17年目を迎えた長寿番組です。

9月8日は写真家の石内都氏をお迎えした二夜目。通算885回目の放送でした。
一夜目の放送内容まとめからご覧になりたい方は以下リンクよりご覧下さい。

9月1日 TBSラジオ『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』ゲスト:世界的に活躍されている写真家の石内都氏 一夜目 放送内容まとめ - 時代を読む

 

以下、9月8日の放送内容の抜粋をお届けします。

 ■うまく行かなかった母との関係
人は差別をしないと生きていけないのかもしれない。少しでも目立ったり、違ったりする違和感をうまく受け入れるのではなく、排除していくという人間的なものがありますね。

実は今、11月に母ともう一人の女性の展覧会を予定しており、それに向けて母のことをいろいろ調べる中で、やはり私はわがままな娘だったなと。母との関係がうまくいかなかったということに関して母が悪かったのではなく、私が悪かったと反省しています。

私は斜に構え、私の方が母を正統にちゃんと見てあげなかった。自分自身で自分のことがよくわからず、一生懸命整理しながら自分のことを悪い娘だったなと反省しています。

■同じ年齢の女性の手と足をテーマとした『1947』
写真集『1947』を編集している時に、手と顔と足を入れたらぜんぜんうまくいかなかった。顔と手と足は情報が全く違い、表に出た時の見え方が違っていた。顔をはずしてみたら、明解な何かが浮かび上がってきた。きっちり見ないときちんと伝わらない。そういう意味では、手と足というのは被写体として最高だ。顔は年齢とともに変わっていくし、その人の生き方によっても変わっていくが、手と足というのはその人の人生を体現しており、その40年という時間を撮りたかった。

当初はそんな確信をもって撮っておらず、自分と同じ年の1947年生まれの女性50人の手と足を見たときにそれぞれの時間がちゃんとたまっていると確信した。たまっていたというのは時間の形で、シミ、傷、たこがそれを現していて、撮ったらものすごく美しいと思った。時間はこのように形になって現れ、体は時間を全てためる器なんだと気がついた。そのようにして『1947』という誕生年をタイトルにした写真集が誕生した。

今思えば、出版社はよく出版してくれたなと思う。この写真を見て、若い女の手と足は見てもいいけど、40歳の中年女の手と足なんか見たくないという人もいた。しかし、私はそこに主軸をおいた写真を撮っているわけではないので、別に何を言われてもよかったが、拒否反応を示す人は結構いた。基本的に人間はどういうことなのか、そして40年という時間の形を撮っているわけで、その「40年の時間の形」として手や足に時間が定着しているので、それは美しいに決まっているんです。私は断固たる美意識を持って撮ったので、沢山のいろんな反応がありましたけど自分の中ではあんまり問題がないなと・・・

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■過激な体のパーツは足の裏
体ではなく過激なのは足の裏です。体重を支えているし、地球のマグマの一番近い所にある。そして手はコミュニケーションなんです。モノをつくるなど、体の部分で一番大切なのは手と足だと私は思っていて、そういうことも含めながら手と足にはいろいろと考えるところがあった。

モデル探しは、まず同じ年の友達に声をかけて、その友達から紹介してもらった。あと、私が生まれた群馬県、住んでいる東京、学校に通った横須賀という私と同じ時間を過ごした3つの街の同じ年の女性を紹介してもらいました。意外とみんな撮影することをOKしてくれましたが、足の裏を撮影するのを断られた人もいました。

人に足の裏を見せてはいけない。非常に性的なものでもあり、関西の新聞社で取材があった際、手と足の写真はダメだと断られました。すごく差別されている場所なんです、足って。足の裏は目線から遠いからなかなか見られないが、素晴らしい場所ですよね。

この写真集を出版してくれた出版社はもうつぶれてしまったのですが、こんな写真集はないと面白がってくれて。初めての新しいものを作る喜びがあるわけで、今やこれはものすごく貴重な本になっています。

■「ん?」というテーマを探す
私は、人が避けて通るものや暗くてよく見えないような、みんなが素通りするものなど、立ち止まって「ん?」というものを撮ってきました。例えば、今はもうなくなった横須賀の街に点在していた暗がり。この暗がりは何かなと目を凝らしたり、そういった場所に惹かれる。私は、現実的にそういうものしか撮っていない。

私はいわゆる普通の写真を撮っているつもりがなく、何を撮っているかというよりは自分の生き方を写真に照らし合わせている。私の作品の多くは残念な表面しか撮れていないように感じるかもしれないが、見えない向こう側ということを含めながら撮っている単なる写真ではないのです。形は写真だが、写真の向こう側で、それがまだわからないから写真を撮り続けているのです。

■男の傷をテーマに
男と女の手と足でも違い、『1947』を撮った後に男の『1947』も撮ろうと思って始めたら、男の手と足はぜんぜんつまらなくて、なんだか軟弱で・・・

その時に次に行くきっかけをつくってきれたのが男の傷です。体に大きな傷のある男がいて彼にたずねると、彼がその傷を受けた時から今までの物語を語り始め、傷も面白いと思いはじめた。他のモデルにも傷の事をたずねると、必ず皆その傷の話をしてくれる。それは、古い写真にものすごく近く、傷も時間の形で個人の歴史の形。だから『1947』を飛び越えて、そこに行ったというのは必然的。傷は私にとって、すごく大きなテーマです。

「Mother's #35」 2002年 (c)Ishiuchi Miyako

「Mother's #35」 2002年 (c)Ishiuchi Miyako

■念願の母の傷を撮影
ずっと傷を撮りながら、その間に母が亡くなった。実は、母は火のついたてんぷら油をかぶり、ものすごく大きなやけどを負っていて、体に傷を沢山持っていた。やけどをした人は、自分の皮膚を移植するので傷が倍になる。母は気丈な人で、てんぷら油に火がついてしまったため、その鍋を持ち出して庭に投げ出した時にその油をかぶり、大変なやけどを負っていた。

随分と前から傷のシリーズを撮っていたが、なかなか母の傷を撮るということがうまくいかなかった。ある時、人の傷を撮っているんだからお母さん撮らせてねと説得して、母はやっと84歳の誕生日に傷を撮らせてくれた。それから10ヵ月後に亡くなるのですが、まさか亡くなると思っていなかった。撮影まで時間を要したのは、母にとっては見せたくない傷だったのだと思います。

■母の写真で泣いてくれた人
母が亡くなってから、遺品を撮り始めてそれが2005年のヴェネツィアビエンナーレの日本代表となって。作品を発表したら、ドンドン流れが広くなっていった。私は会期中3回ヴェネツィアに行っていますが、私の写真を見ながら泣いているのを目撃してビックリして、私の母の遺品や傷ということではなく、これはもっと広い誰のものでもないというのを垣間見たのです。

日本から訪れた人たちもビックリしていて、みんなじっくり立ち止まって見ている。「中に泣いている人もいたよ」と教えてくれた人もいました。これは母と娘の問題ではなく、もっと大きな意味で、母が自立したのかなと。作品というのはいろんな人の視線を受ける。ヴェネツィアはそういう意味でも世界一のアートフェアーだった。

「ひろしま #106 Donor: Hashimoto, H.」 2016年 (c)Ishiuchi Miyako

ひろしま #106 Donor: Hashimoto, H.」 2016年 (c)Ishiuchi Miyako

■運命的な広島との出会い
ひろしま』は広島に初めて行って、撮った写真。遺品たちと出会った時にそれまではモノクロのイメージしか持っていなかったが、色があるじゃないかとビックリした。「おお、何だ、かわいいじゃん。綺麗じゃん。何もかも素敵じゃん。」という感じで、「これはきちっと撮ってあげないといけないな」と・・・

すごくおしゃれで、デザインもすごくかっこよくて、単純に私がこれまで抱いていた被爆した遺品という枠ではないのです。そこで、私がきちんとかっこよく綺麗に撮ってあげようということで、撮影したものです。

品がすごくよく、やはり戦前は着るものが贅沢ではなかったけど、着物をほぐして防空頭巾にしたり、ブラウスにしたりお母さん達がいろいろ工夫して一生懸命縫っている跡があり、生活がきちっとそこにあるんです。1945年8月6日、ニューヨーク、ロンドン、パリ、もちろん広島の子供たちもおしゃれをしていた。それが日常で、それを撮っただけなのです。

本物はこんなに美しくはないのですが、私が撮ると美しく撮れる(笑)

だから、今撮っているのです。過去は撮れない。写真は今しか撮れないから今の広島を撮っているんです。私は、広島に出会ってよかったなと。

それまで、広島を訪れたことがなかったから広島に全く興味がなかったわけです。でも、こういう写真を撮ることによって、関係が持てて。多分、私は一生、広島と付き合い、広島を撮ったことで自分の広島を負う、全責任を背負おうという覚悟のモトみたいなものが出来て。これから先の生きていく価値が非常に明解になった。

■苦手だった「いわさきちひろ」の絵
いわさきちひろの遺品を撮った新作を発表します。いわさきちひろは私の人生には全くなかったといっても過言でない人でした。私は、あのようなかわいい子供の絵が苦手で、私にはピンと来ていなかったのです。しかし、彼女の生き方に初めてふれ、昨年、安曇野ちひろ美術館で広島をテーマにちひろさんの原画と私の「ひろしま」を展示しました。すごくよい展覧会ができ、私の固定概念でしかなかったと思い、2歳しか違わない母との重なりも含め11月に東京のちひろ美術館ちひろさんの遺品と母の遺品『Mother's』、二人の女の物語、彼女達の昔の写真を展示しようというのが直近の一番大きな動きです。

スマホで撮った写真は写真ではない
多くの人はケータイやスマホで撮った写真を『写真』だと思っているけどあれは写真ではない。単に情報でしかなく、安易に写真という言葉を使いすぎという感じがします。動かない画像みたいなものが写真だと思っているけど違う。

私の場合は、写真を売って生活しており、いわゆるカメラマンということではなく作品を作るという意味において写真をやっている。だから、ただ撮って、みんなに見せたり、どこかに応募するというものではないので、そういう写真の世界のことはあまりよくわかっていない。写真と言っても、ぜんぜん違うところにいるのです。

私が売っている写真は枚数を限ったオリジナルプリントでエディションがあり、きちんとサインします。そのように海外で売っているわけです。だから、いわゆる一般的な写真家とは少し違うのかもしれない。そして、あれを撮ってくださいというような頼まれ仕事は請けず、自分が好きなものしか撮りません。贅沢して生きていこうと思っていますから。

私の写真を見てどう思ってくれるのか、売れる、売れないの話ではなくそれが自分の生き方。自分の生き方を写真にどこまで込められるかというようなことはありますね。

私は35mmのカメラで内臓の露出計のみで、自然光で撮影するのでライトも要らない。手持ちで撮影するから助手は要らず、一人で全部撮れる。

■とんでもない写真が出てくる時代?
遊びで撮る写真はすごく流行っている。遊びはすぐ飽きるけど、飽きるまでやればいいと思う。もしかしたら、若い人がもっと進化して、撮影した中からいい物を取り出すなど進んでいけば違ったものが出てくる可能性はある。写真は、まだこれが『写真』というのがなく、可能性の中にある。私もその写真の歴史の中にいるという現実感がすごくあるのです。これから先、何がでてくるのか、とんでもない、いろんなものが出てくる可能性が沢山ある。デジタルはコンピューターで何だって出来てしまうから、とんでもないものが出てくる可能性がそこにはあるし、今まで考えもつかないようなものが出てくるかもしれない。
                                    以上

参考まで石内氏の写真集の一部をご紹介いたします。合わせて以下リンクを参照下さい。



なお、石内氏の個展「石内 都 展 都とちひろ ふたりの女の物語」が11月1日から来年1月31日まで東京・練馬のちひろ美術館にて開催されます。本展覧会では、新たにいわさきちひろ氏の遺品を撮り下ろしたシリーズ「1974.chihiro」29 点の初公開とともに、自身の母親の身体や遺品を撮影したシリーズ「Mother's」も展示が予定されています。
詳細は以下リンクを参照下さい。