時代を読む

ジャーナリスト嶌信彦のコラムやお知らせを掲載しています。皆様よろしくお願いいたします。

ソ連から独立直後のウズベキスタンで万雷の拍手で舞台に迎えられた日本人たち

『夕鶴』終演後、ナボイ劇場建設に携わられた日本兵の方々が舞台に登場 万雷の拍手で迎えられる

『夕鶴』終演後、ナボイ劇場建設に携わられた日本兵の方々が舞台に登場 万雷の拍手で迎えられる

スタッフからのお知らせです。
嶌の広島在住の友人が2001(平成13)年にオペラ歌手の故・経種廉彦(いだねやすひこ)氏が寄稿されたウズベキスタンタシケント市のナボイ劇場での『夕鶴』上演に関するコラムをご本人の賢弟とのご縁により送付くださいましたのでご紹介します。

『夕鶴』中央アジア公演は、国際交流基金主催により2001年8月27、28日がナボイ劇場、その後、同年9月2、3日にカザフスタンのアベイオペラハウスにて上演されました。当初、本作を作曲された團伊玖磨氏ご本人が指揮をされる予定でしたが、團氏が同年5月に逝去され現田茂夫氏が指揮をとられることになり、経種氏は「与ひょう」役として出演しています。

また、本公演に合わせ実際にナボイ劇場建設に携わられた日本兵の方々がウズベキスタンを訪問され、この寄稿文のなかにも建設当時のエピソードが盛り込まれています。本公演の模様は同年12月9日に放送されたTBS『報道特集』でも報じられました。

当時のパンフレットがございましたので、合わせて紹介いたします。

『夕鶴』中央アジア公演のパンフレット

『夕鶴』中央アジア公演のパンフレット

ウズベキスタン再来』経種 廉彦

 「荷物室から火が出たため、タシケント空港に緊急着陸します」
 機内放送が流れた。シンガポールをたってから四時間ほどたっている。おそらくインド上空あたり。
 しばらくして着陸体制に入る。タシケント空港が見えてきた。窓の外には冷たく張り詰めた滑走路に、何台もの消防車が待機しているのが見える。まるで映画のようだ。
 ちょっとした緊張感とともに、地面にタイヤが触れた振動が伝わる。同時に機内にはあふれんばかりの拍手。
 機内で3時間ほど待たされた後、やっと飛行機のタラップを降りる。白い息を吐きながら、地面に足をおろしてみる。
 ここがタシケント。1991年1月15日、シンガポール経由でローマに向かうときのことである。これが僕の初めての海外旅行だった。
 あれから10年。僕はまた、タシケント空港でタラップを降りている。8月の終わり、今度は夏のタシケント。とても懐かしい気がした。
 91年秋、ウズベキスタンタジキスタンキルギス共和国をはじめとする中央アジアの国々も、大国ロシアから独立した。つまり、今年は独立10周年記念の年である。僕のタシケント再来も10周年。『縁』を強く感じる。
 今回はオペラの公演にやってきた。團伊玖磨先生の歌劇『夕鶴』である。夕鶴は52年に初演され、すでに7百回以上の公演を重ねている。その『夕鶴』を国際交流基金によって、ウズベキスタンタシケントカザフスタンのアルマトゥイで2回ずつ計4回上演する。
 当初は團先生自ら指揮をなさることになっていた。ところが先生は5月17日、中国蘇州市で他界され、かなわぬこととなってしまった。
 われわれは指揮者、演出家、出演者、スタッフの約30人でウズベキスタンにやってきた。そして地元のスタッフ、オーケストラ、子供のコーラスとともに『夕鶴』を上演する。
 ウズベキスタンでの会場は、国立ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場(1400人収容)。この劇場が素晴らしい。正面には4本の大きな柱、ヨーロッパの劇場の風格十分。正面玄関前の広場には、大きな噴水が水を噴き上げている。
 この劇場は第二次世界大戦後、抑留されていた約400人の日本兵捕虜が、2年間の強制労働によって建設し、47年に完成したものである。
 本番の前日、『夕鶴』応援ツアーでいらしている当時の日本人抑留者の方々6人からお話を聞く機会があった。皆さんとても明るい表情で、当時のことを語られた。その中で『タシケントの収容所は強制収容所じゃなく、天国収容所と言われた』『地元の人には負けまい。日本人の力を見せてやる!と思いながら働いた』との言葉が印象に残る。
 当時25歳(※)の永田さんを隊長として、本来は飛行機の修理を専門としている人々が、レンガを焼くところから始め、それを積み上げ、配線をし、大工仕事、彫刻までこなし、造り上げたのがこの劇場だ。捕虜の身だからきっと環境は過酷なものだったことだろう。戦争を知らない僕らの世代からは想像もつかない。
 しかし、その中で彼らは次々と楽しみを見つけていったらしい。現場の板材から将棋のこま、マージャン牌をこしらえ、バイオリンまで作ったという。自分たちで舞台を作り、「国定忠治」など芝居まで上演していたらしい。こうして次々と何かをつくりだす彼らに、現地の兵隊や市民たちも心を開いていったのではないか。「天国収容所」と言わしめたのは彼ら自身の心の豊かさ、生きることを楽しむ好奇心だったのだ。
 そして今回、地元のスタッフは「日本人スタッフはすごい!」と言っている。舞台の立ち上げから、けいこの進行のち密さ、おそらく世界一のスピードと正確さを持っている。その上、どんな状況に陥っても匙(さじ)を投げない。きっと今も昔も日本人の力はミラクルなのだ。
 劇場の北側の壁には、「1945年から46年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイー名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」と日本語で標記されたプレートが埋め込まれている。
 ウズベキスタンに到着してちょうど一週間。歌劇『夕鶴』ウズベキスタン公演は「つう・・・つうー・・・」という僕の声で幕を閉じた。観客総立ちの大喝采。遠く離れた国の日本人が作った劇場で、日本のオペラを上演できた。最高の公演だった。
 カーテンコールで、舞台に掲げられた團先生の遺影もほほ笑んでいらっしゃるように見えた。

山陰中央新報社『羅針盤』2001年9月30日寄稿
(※)年齢は数え年での掲載となっています 

この当時の劇場プレート 現在はリニューアルされサイズが大きくなっている

この当時の劇場プレート 現在はリニューアルされサイズが大きくなっている

ナボイ劇場建設携わられたに故・若松律衛氏(故・渡辺豊氏撮影)

ナボイ劇場建設携わられたに故・若松律衛氏(故・渡辺豊氏撮影)

なお、 『ナボイ劇場』建設に携わられ、若干24歳で隊長を務められた故・永田行夫氏が本公演をご覧になられたことを帰国直後の2001年9月26日の日経新聞に寄稿されております。ぜひ、以下リンクを参照いただけると幸いです。

合わせて、『ナボイ劇場』建設に関する話はノンフィクション『伝説となった日本兵捕虜』(角川新書)にまとめられております。こちらもお読みいただけると幸いです。

画像:『夕鶴』パンフレット以外は、『ナボイ劇場』建設に携わられ帰国後、実家の写真館を継がれた故・渡辺豊氏撮影

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