時代を読む

ジャーナリスト嶌信彦のコラムやお知らせを掲載しています。皆様よろしくお願いいたします。

「東洋経済ONLINE」に鉄道ライター 草町義和氏から取材を受けた大井モノレールの記事が本日掲載されました

スタッフです。先日、鉄道ライター 草町義和氏による連載記事「都会に眠る幻の鉄路」(東洋経済ONLINE)の取材を嶌が受け、本日『「大井モノレール構想」はなぜ幻に終わったか』として掲載されました。

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※草町氏の取材を受ける嶌

以下嶌が取材を受けた内容の抜粋です。
全文お読みになりたい方は以下リンクを参照ください。
http://toyokeizai.net/articles/-/109109

今回も、京浜東北線大井町駅から湾岸の大井埠頭を目指すはずだった、幻の「大井モノレール」を紹介する。(中略)

申請から10年後の1982年1月25日、大井モノレールの「代表取締役 嶌信正」が申請の取り下げ願いを提出している。これを受けて当時の運輸大臣は、同年4月1日付で申請書を返付。計画は幻に終わった。(中略)

取り下げ願いで名前が出てくる嶌信正は1996年2月、『自処超然』(嶌ネットワーク)という題名の自伝を著しており、モノレールとの関わりを描き出していた。(中略)

嶌の『自処超然』には、これらの疑問への回答は記されていない。本人に直接話を聞こうにも、今から18年前の1998年に亡くなっている。

嶌の息子である信彦さんからは、信正の人となりを少し聞くことができた。信正と同様、毎日新聞出身のジャーナリストで、現在は日本ウズベキスタン協会の会長としても活動している、嶌信彦さんだ。

信彦さんは「父はしょっちゅう職業が変わっていた。子供の頃は、父が今どんな仕事をしているのか、よくわからなかった」と話す。頻繁に転職を繰り返していたせいか、信正の仕事に強い興味は持っていなかったらしく、大井モノレールについても「父と話をした記憶はない」という。

ただ、信正が日本高架電鉄に入った頃、信彦さんは珍しく「どんな仕事をやってんの?」と質問したという。「当時はモノレールがどんな乗り物なのか、自分もよく知らなかったから。父は『羽田から東京までは、自動車時代になって、混んで時間がかかってしょうがない。(時間を)短くするためにモノレールが必要。建設用地を確保するために地主と交渉するのが私の仕事』などと話していた」。

熱血漢が仲間と挑んだ夢 
もっとも、信正はモノレールそのものに強い関心があったわけではないようだ。信彦さんは「父は熱血漢で、人に好かれるタイプだった。職を失うと、友人が『嶌を助けよう』と、必ず次の仕事を紹介していたようだ」と話す。「父も父で、友人から面白そうな仕事の話を持ちかけられると、『よし、手伝ってやろう』と、すぐに動く人だった」という。 実際、信正は前述の通り、参院副議長秘書を辞めて「浪人暮らしを覚悟」した頃、東京モノレール元副社長の城戸が誘っている。「東京モノレール時代に城戸と仲良くなったようで、家でもよく『城戸さん、城戸さん』と話していた。きっとウマが合ったんじゃないかな」(信彦さん)。 

信正が大井モノレールの計画にかかわったのも、モノレールという乗り物への興味というよりは、東京モノレール時代の「仲間」とのつながりによるところが大きかったのかもしれない。