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時代を読む

ジャーナリスト嶌信彦のコラムやお知らせを掲載しています。皆様よろしくお願いいたします。

理化学研の再建に立ち上がる松本理事長

コラム 嶌信彦 人生百景「志の人たち」

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 野依良治氏の後任として新しく理化学研究所の理事長になった松本紘氏は一見すると眼光鋭く、謹厳実直なこわそうな学者タイプにみえる。しかし、一度話始めると小さい頃から苦労され、多くを独力と恩師、国際的な仲間に支えられて京大総長から理研理事長まで上りつめられたユニークで極めて努力家であり、話の面白い方だった。
理研小保方晴子さんの事件で一時評判を落としたが、日本で最高級の人材を集めた大学以上のシンクタンクといえる。活動的で構想力豊かな松本紘氏の話を字に書き起こした。(TBSラジオ毎週日曜午後9時半から放送している『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』の6月12日と19日の放送から一部紹介したい)

 収録時、松本氏の名刺をもらって驚いた。生まれてから今日までの経歴を10枚以上の写真で綴ってあり、裏をめくると小さい頃からの日記や文章、絵などが書いてあるのだ。こんなユニークな名刺を頂いたのは初めてのことだっだ。拡大してぜひご覧になって頂きたい。

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画像:松本理事長の名刺(経歴)


【京大へ~本当は社長になりたかった~】
 もともと大学で工学部で電子工学を学んでいた。就職を希望していたので工学部に入学したが、ひょんなことで大学院に行き、助手として大学に残ったことが今日の人生の始まり。本当は大学以外の所で活躍したいと思っていた。

 背景としては家が決して豊かではなく、食べていくことが基本だったからだ。当時は家庭の事情から就職できて仕事を頂き、その仕事がおもしろければよいとも思っていた。私も一緒に働かないと食べていけない状況で、奨学金をもらっていたのでそれで学業に関することは購入できたが、アルバイトをして家にお金を入れており、生きるということが最初であった。


【松本氏の知識の蓄え方】
 私は工学部を出たがやってきたことは理学や工学のあいのこようなことをやってきた。それだけでなく関心は人としての関心があって、なかなかうまく表現できないが、高校の頃は文学部に行きたかった。文学部ではあまり稼げないということがわかっていたので諦め、理系に行くことに。

 私は様々なものへの関心がある。ただ、関心があることと知識があることは別であり、知識がなければそれを補わなくてはならない。補うやり方が非常に苦手で、大抵の方、嶌さんもそうだと思うが、書籍を読んだり、人にインタビューしたりして知識を蓄えるが、私は片目が悪く(かたや1.2とかたや0.1)、沢山の本をじっくりと読むことが出来ない。
じっくり読むか、はしょって読むか速読かと言ったら後者しかなく、いろんな本を見るというのをたくさんやってきた。エッセンスは2、3行であるから、どこがエッセンスかをパッパッパッとめくってみる。

 私の場合は研究管理をやっているので、いろんな研究分野の人の本を読んだり、いろんな知識があったり、社会情勢を知らないといけないので多くの事を知る必要性があると思っている。そうするとゆっくり読んでいられないということになる。


【一転して大学院へ進学】
 まあなんとなく会社に入って技術者としてやっていこうと考えていた。どうせ技術者になるなら会社というものがよくわかっていなかったものの、社長になろうと思っていた。当時工学系では日立が一番大きい会社のように思ったので、日立の社長になってやろうと思って、4回生の時に実習に行った。日立は素晴しい研究をしているし、大きい会社なのでいいなと思ったが、自分たちの時代は学部の半分くらいは大学院に進学するようになっていた。
4割は就職、6割は進学という中で、世の中これから修士号くらいもっていないと会社といえどもよくないというウワサが流れた・・・


【教育熱心な母】
 母は負けん気の強い人で、子供に教育をしたいけど財政的にしんどい。本がないので、本を持っている人の家に行って、しかも、ライバルと思われるよくできる子の家(たまたまお医者さんの家)にいって絵本を物色して借りて来て、その絵本をそっくり絵も字も写していた。111ページもあったのですが、根性ありますよね。つけペンで書いてるんですが、誤字が全くない。絵も非常にきれいに書いていた。弟もいたので、1冊で二度おいしいという感じで、まあ頑張っていたんじゃないですかね。

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※画像は、松本理事長の名刺(小学生時代の絵日記)


【友達が財産】
 昭和17年生まれで中学校の時は13クラスあり、55人。同級生にボス的な存在の人がいて守ってくれていた。京大の総長になった際も「いじめられてないか」と言って電話をかけてきたことがあった。友達が財産。高校は奈良の女子大の付属高校に進学。特待生として奨学金をもらう。大学は京大に奈良の郡山から2時間かけたら通えるというので京大を受験。


【今なお自分たちの軸を持ち続ける京都】
 京大は行政府から遠いが、反権力風土の強い。法経は批判的で在野的なカラーを作りだしていた。私はニュートラルだが、大学は左派。批判的なことをやっているとどうしてもそうなる。「国の要望をそのまま受けるのはケシカラン。」と、情報を京大から文科省に与え、提案をして様々なものを獲得してきた。モノの動かし方を知らない人があれこれ言う。東京に対する対抗意識は、京都というより関西の文化だろう。今は関西が弱くなったが、京都にはその風土が残っており、自分たちの軸を持っている。

 京都の上場企業は優秀な企業が多く、いまなお本社を京都に置いている。ベンチャーの創始者は京大で学んでいる人も多く、小さい町だからつながって産学連携も盛ん。知事と商工会会頭、京大総長、お茶・お花の家元(文化人)が月1回朝食会をする。それは東京ではできない。小さいがゆえのコミュニケーション。私の学生時代、教授たちは祇園にツケで飲んでいて、私の指導教官の前田憲一先生、大林先生も洒脱で面白い人達だった。


【産業界への夢を持ち続けたが・・・】
 私は一つの事をじっとやるのが苦手で、まわりの人は「マグロ人間に見える」と、要は止まったら死ぬ。というような性格、当時ごとに一番面白いと思うテーマを変えてやっていた。

 その後、研究主体の研究室に行き助教授になったが、本心はまだ産業界への夢はあり63歳の定年退官時にある会社の社長に内定していて「やったー」と思っていたら、副学長に推薦されあと3年のばしてもらい、その後総長に選ばれてしまって、結局9年も務めたら話は無くなってしまった。


【充実したアメリカ生活】
 教授になった時にこのままじゃ面白い人生を歩めないから、外国にいこうと思った。理由の一つに家族サービスもあり、家内とは高校時代からの知り合いで24歳の時に結婚。すぐ子供が生まれたが双子で一人が生まれ落ちた時に酸欠になり脳性小児麻痺になった。私の母とその母(祖母)の面倒も見てもらい、大変な苦労をさせていたので家族サービスも必要と思っていた。アメリカのNASAに決まり、天文学で未知の世界だったが最終的にはこれならできると思い2年滞在。

 アメリカの学者のネットワークを作り、それが後々の国際学会を作る基礎となった。人間関係が重要と思い、「覚悟とは真実を巡る人間関係である」。書物、論文を通じて知る人間関係。人間は学問といえども一人ではなにもできない。いろんな人の影響を受けていることを強く認識し、いろんな人と交流できたことは良かった。


【実際に人に会うことの大切さ】
 論文だけでは広まらず、素晴しい論文を書かれた人で会ってみたら「たいしたことないな」という人もいる。討論したらわかるが、その逆もある。論文だけみてたら「パッとしないな」と思ってもお会いしたら、その分野ではこの程度でも、他の分野と複合したらすごい人だなということもある。だから、会ってみないとわからない。ということで国際学会を作ってみたり、国際的に教育をしようと思いインターナショナルスクールを作ってみたりした。


【思いがけず京大総長に】
 総長は普通は大きな学部から出るが、私は部局だと助手までいれても40人と少ない。前の総長の尾池先生が「財務担当をやってくれ。わからない君だから改革できる。」と言われた。固辞し、「研究はできる」と言ったら研究と財務をやることになり、引き受けたからには簿記の勉強や財務部の部長を集めて一夜漬けで勉強したら結構物知りになって、5、6個仕事をもらっていろいろやるようになった。
他の副学長が何人かいたが、そのうちの一人が高校の後輩で「あまり張り切らんといて下さい。僕らが働いていないように見えます。」と言われたりもした(笑)そういったことが、学内から見えていたので総長になったように思う。

 私はのろいのが嫌いで全てがクイックレスポンス。例えば、山中さんのノーベル賞に繋がる取り組みとして、実際研究を見た時に、チャレンジングで生物学の歴史を覆すと思った。古い細胞が全く新しく生まれ変わる。まだねずみの時代で、「人にも適応できるのか」と尋ねたら「もう2、3年したらできる」というので、「世界はどうか?」とたずねると「世界も競っている」とのことだった。
一研究者の研究のままでは負けると思ったのでセンターを作ろうと思い、ある仕組みを作り2カ月でセンターを作った。当初は数人だったが、総長の権限で作ったところあっという間に2、300人の組織になった。これはクイックレスポンスが成功した例。


理研理事長に】
 研究者は自分の研究を世の中に出すのが望みですから、その場があるというのは有利。今日本からアメリカやヨーロッパに出て研究しようという人が非常に減っている。特にハーバード、MITの学長から「日本からはもっときてよ。かつて日本から優秀な人達が来ていた。」と言われる。激減した理由の1つは日本に帰ってくる場所がないからだ。これは大変な問題だと思っており、理研では優秀で故郷に錦を飾るような「錦プログラム」「シャケプログラム」を作っていい研究者を迎えようと思っている。

 理研は幸い大学よりは一人の研究者に割り当てるサポートが大きく、アメリカほどではないながらもアメリカに近い環境を提供できる。場合によってはアメリカに勝る環境を与えられるので、優秀であれば帰ってもらえるし、バッファーを置いて大学にも帰ってもらえる。

 小保方さんの事件は、理研で結論を出してから私が赴任したので詳しいことはわからないが、結局ES細胞をIP細胞と見間違えたのではないかと思う。理研には99.9%本当にいい人がいて、どんなにいい人がいて、こんな研究をしているということをもっと世の中に知ってもらいたい。同時にそういう不正が起こってはいけないということをきちんとやる。

 例えば113番目の元素を理研が世界で初めて作った。あれなんかは、外国のニュースの方が大きく取り上げていた。日本でもだいぶ騒いで頂き、いい意味で報道頂いたが外国のメディアの扱いはもっとすごい。かなり大きな発見・発明だったが、ああいうものは大学ではできない。森田浩介先生がやったが、二つの理由から大学ではできなかった。
一つは装置がない。もう一つは長らく成果が出ないと大学に居ずらくなる。理研は成果を確信し、23年間ずっとサポートし続けた。一つのテーマをがっちりやられた。本人の根性もすごいが、見守っている組織が重要。大学では3年で成果が出ないと居場所がなくなるような世界。これではこの研究は成し遂げられない。


理研コンツェルン
 理研は来年創立100周年。それにしては日本人の間であまり知られておらず、これまでの100年は輝かしい。意外と知られていないのは、理研は大正時代に列強の中で政府としては大変不安に思い高峰譲吉先生、渋沢栄一さんなど先見の明をもった人たちが研究をやらないといけないと。当時帝大もあったが、帝大だけではできないと財団法人の研究所をつくった。
2代までは皇室から総裁を迎え、3代目の所長が大河内正敏という立派な先生が東大からきて、43歳。商才があり「理研コンツェルン」、理研産業団を作り当時日本は産業で外国に勝てなかったが、勝てる会社をつくろうと63の会社を作った。大河内さんはその会社のすべての社長を兼任して、各会社には専務しか置かなかった。研究者であると同時にビジネスも見渡せた人。戦争に負けて、財閥と思われ解体。
コンツェルンの中でまだ残っているのがリコー、アサヒペンタックス協和発酵ピストンリングのリケン、リケンビタミン(リケンのわかめちゃん)。これらはみな理研から出た会社。今は理研と親しむ会を作って頂き、大きな財務サポートはもらっていないが、いずれもっとコアな産学連携をもう一度再構しようと思っている。


【会社ぐるみのような不正に関して】
 社会が複雑になって、様々な規制がありその規制をすり抜けるような悪知恵がある人は当然社会の一部にいるが、一番の基本は何かというと「日本人の倫理観が変わった」。恥の文化といわれた「菊と刀」に書いてあるルース・ベネディクトの言葉自体が逆になっている。矜持や恥の文化が随分と薄まってしまったという気がしている。
そこに根源的なものがあって、要するにアメリカ流の札束でビンタするような文化が日本にドッと入って来て、それ自体が1つで入ってきたわけではなく、民主化やデモクラシーのような戦前の日本の社会制度、経済制度を否定するような形で入ってきて、一緒になって入って来たものだから札束でビンタ文化が必ずしも日本の古来の相手を思いやる、大事にする、周りを思いやる、謙虚である、人間なのである程度欲を抑制する、それらのことが忘れ去られている。これにすべて根源的なものがあるように思う。

 誰の心にも自分は得をしたいという気持ちがある。キリスト教文化のように100%人のためはありえないから半分人の為というのが最高だと思う。ちょっとでも人の為、相手がどういう気持ちでいるか、相手の状況はどうか。ここまでやったら自分は恥ずかしくないのか「天に恥じず」という言葉にあるような気持ちをぜひリカバーして欲しい。

 産業界の問題も一人一人を捕まえて話をするときっといい人。組織になるとそういうことが起こっているのは人間の性かもしれない。これをいろんなシステムで解決する必要があるように思っている。

TBSラジオ嶌信彦 人生百景「志の人たち」』(毎週日曜午後9時半から放送)
 http://www.tbsradio.jp/100kei/
 6月12日と19日の放送から一部抜粋

 

◆お知らせ
 ・今週日曜日(31日)は東京都知事選特別番組放送のため、『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』はお休みとなります。振替放送は決定次第オフィシャルサイト、SNS等でお知らせいたします。

 なお、次回のゲストは水族館プロデューサーの中村元様。魅力ある水族館をつくるために何が必要なのか、また本来の水族館の楽しみ方につい てや、中村様オススメの水族館についてお伺いする予定です。前週のほうそうがただいま番組サイトで公開中です。お聞き逃がしの方はぜひお聞き下さい。