リベラル派の重鎮逝く 加藤紘一氏死去
元衆議院議員の加藤紘一さんが肺炎のため亡くなった。77歳。ここ数年は体調を崩していたが、会合では、中国訪問の感想や政局の見通しなどもよく口にしていた。山形県鶴岡市出身だったが、学校は都立日比谷高校、東大出身で都会っ子と田舎風の雰囲気を合わせもっていた。外務省に入りチャイナスクール閥だったが、1971年に退官。衆議院に打って出て、ずっと大平派のプリンスと目されていた。
私は高校の3年後輩だった縁で、加藤氏が2年生議員だった頃、「30~40代の会社勤め中心で将来会社を背負って立つ人たちの勉強会をやりたいんだが集めてくれないかな」と頼まれた。鉄鋼、商社、金融、家電、都市開発、サービス業など各業界の目ぼしい人10人くらいに声をかけ、手づるのない場合は社長の所に行って推薦してもらった。会の名前を「紘朋会」と名づけ、1~2ヵ月に1回、一人4~5000円程度の朝食会を開催した。皆ほぼ同じ世代だったので言いたいことを言い合い、なかなかいい会合となった。ただ10年を過ぎた頃、「これからは政策だけでなく党務に力を入れたい」と言い出し、担当秘書も代えて会費を2万円ぐらいとる100人以上の朝食講演会(講師は役人や学者など)にクラ替えしてしまった。担当秘書から突然振込用紙が来て、会合も意見を言い合う会ではなくなり、結局紘朋会は自然消滅していった。
その後加藤さんは国会対策、防衛庁長官、官房長官、自民党幹事長などを歴任し、党の重鎮になっていった。
”三角大福中”、”安竹宮”の首相候補に続き”YKK”がその後に続くとみられた。2000年11月の”加藤の乱”では野党提出の森喜朗内閣に対する不信任案に同調する構えをみせたが、執行部の切り崩しにあい失敗。以後2012年末の衆院選に敗れ政界引退に追い込まれた。加藤さんは、デビュー当時から、将来は間違いなく首相となり、日本を中道リベラルの方向へ導く政治家として期待されていた。それが加藤の乱で挫折し、加藤グループも四散した。その後は、中国との橋渡し役などを務めたが、政治的存在としての影は薄くなってしまった。
私は加藤さんの岐路は政策路線から党務へと方向を変えたときにあったと思う。当時「政策だけではトップになれない。雑巾がけや汚れ役もこなさないといけないからな」とつぶやいていた。しかし、政策家として道を貫いていれば、時代が加藤さんを迎えたのではないかと思う。慣れない党務に手を染めてスキャンダルに巻き込まれたり、加藤さんの軸、イメージがぶれてしまったのが惜しまれる。今の政界を見渡して、理論、行動、国際的評価などで加藤氏に匹敵する人物が見当たらないだけに悔やまれる。
【財界 2016年10月18日 433回】