【特別編】2019年4月14日 TBSラジオ『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』ゲスト:徳増浩司氏 アジアラグビー協会名誉会長(ラグビーワールドカップの日本招致の立役者) 二夜目 放送内容まとめ
スタッフからのお知らせです。
TBSラジオ 『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』(日曜 21:30~)は様々な分野で志を持って取り組まれている方々をゲストにお招きし、どうして今の道を選んだのか、過去の挫折、失敗、転機、覚悟、再起にかけた情熱、人生観などを、プロモーション時期とは関係なく嶌が独自の切り口で伺う唯一無二の番組です。2002年10月に開始した「嶌信彦のエネルギッシュトーク」を含め18年目を迎えた長寿番組です。
今回は、特別編として日本で現在開催中のラグビーワールドカップ招致の立役者である徳増浩司氏をお招きし昨年の4月14日に放送した二夜目の放送まとめをお届けいたします。通算864回目の放送でした。
昨年秋に開催されたラグビーワールドカップはラグビー日本代表の活躍もあり、かつて無いほどのラグビー旋風が日本に吹き荒れました。トップリーグも賑わいが出て、スポーツニュースでも結果が紹介されるようになりましたが、現在は新型コロナウイルス感染症拡大防止のため試合が中断しています。状況が収束し、一日も早いリーグ戦の再開を祈念しております。
アジア初開催のラグビーワールドカップの招致ということもあり、開催までの道のりには並々ならぬ苦労がありました。一人でも多くの方に招致にかける熱い思いと苦労を知って頂きたく、今回二夜目の特別編として放送内容のまとめをお届けします。
前回の配信から間が空いてしまい大変恐縮ですが、一夜目は以下リンクを参照ください。
■世界中が熱狂する試合に日本は残れるか?
ラグビーワールドカップで日本がどの辺まで行くかというのは、現段階では未知数で「行きます!」と言い切るしかないですね。今回のプールAで勝ち進むと、プールBとの対戦です。プールBはニュージーランドか南アフリカが準々決勝に進出すると思いますから、ここに勝たないと準決勝には進めません。ここから先は夢物語になってしまうのですが、まずプールAを勝ち抜いて、準々決勝に出ると、日本にとって史上初ですからこれはもう嬉しいことです。
ワールドカップは2つのパートに分かれていて、プールゲームで戦っている時と、ベスト8、ベスト4、決勝の雰囲気は全く違います。準決勝、決勝は世界中からお客様が来て盛り上がることは間違いない。ここにどうしても日本がいてほしいですね。
■ラグビーのキャリアは名門とは程遠いところからスタート
私はICUのラグビー部出身で、学園闘争直後の70年に入学しました。当時のICUは学生数が少ない上に、学園闘争の影響で体育会の部活動が一時停止していました。入部前のラグビー部の春合宿を見学に行った時、二人でパスをし合っているのを見て「これがラグビー部か・・・名門とは程遠いラグビーだな」と思ったところから始まりました。その反面、大学の名前の通り国際性が豊かでいろんな人たちの交流がありました。その体験は後のワールドカップの招致活動などに役に立ったのではないかという気がします。ラグビー部に入部した当初は廃部寸前でOBと共に試合をしていましたが2年目に大量に新入部員が入部したことで、やっとラグビー部として成立し廃部を免れました。
恵まれた環境ではないものの、ラグビーにとりつかれました。スポーツは運動神経の良い人が際立つという側面があると思いますが、ラグビーはどんな人でもある程度こなせるという魅力があり、15人が1つになって前進するという面白さに魅了されました。ただ、ラグビーを仕事にするとはこの時は微塵も思っていませんでした。
■忘れられぬラグビーへの郷愁
大学時代はラグビーのみならず、ワークキャンプのような子供たちと関わる福祉活動も多く経験しました。ある時、倒れたスタッフの代打で八王子の児童養護施設の一員となったことが一つの転機となり、世の中に訴えていくことは大事だと思うようになりました。この思いを叶えるため、実家が福岡でしたから西日本新聞(本社:福岡市)を受け入社しました。しかし、実際にその世界に入ってみたら違和感がありました。まさに若気の至りで記者を志したものの、ある時にふと気が付いたのです。
高校ラグビーの1回戦の取材に行った時のことです。弱いチームでしたが、子供たちと先生が気持ちを一つにしてタックルやトライをして喜んだり、悔しがっているのを見て、私はそれを書くことしかできない。「やはり自分は一度でいいから書くのではなくて、あの中に入りたい」と実感しました。
そこで早速、新聞社に勤務しながら福岡のクラブチームに入り、日曜日に試合をしたり、子供たちにラグビーを教えていました。そんな中で、ある日突然大きな転機がやってきて、これがウェールズに行くきっかけとなったのですが・・・
■突然やってきた人生の転機
ある日、この出来事がなければ今日の私もなかったというほどの日が突然訪れるのです。私はラグビーとの関りについて疑問を感じ始めている時に、自分が所属していたクラブチームが関西電通と戦うため関西遠征に行くことになりました。土曜日に自分たちの試合をし、翌日に花園ラグビー場へウェールズ対日本の試合を見に行きました。
実はその当時、私はウェールズというチームのことをよくわかっていませんでした。外国のラグビーチームの選手は体が大きいから強いと聞いていたのですが、実際に観戦すると決して体の大きくない選手たちが巧みなステップや超人的なパスで相手をかわしボールをつないでいくのです。それを見て、「わー、こんなラグビーがあるんだ!」と感動し、圧倒され、しばらく呆然としていたことを昨日のことのように今でも覚えています。
大学時代は、経済的に苦しく全てアルバイトで賄っていました。海外に留学する人もいましたが、私は留学できませんでした。ICUのラグビー部の名簿を見ると、在ロンドン、在ニューヨークなどいる中で、私は在福岡で、いつか海外にいくならこのタイミングしかないと思い新聞社を辞めました。今思うと若気の至りです。いつか教師になり、ラグビーを教えたい。その前にウェールズを見ておかないといけないと思いました。
新聞社を退職後すぐにウェールズに行こうと思っていましたが、家庭の事情ですぐに旅立つことができなくなり、やむなく職業安定所、今でいうハローワークに行くと「本当にバカだ。西日本新聞に入って辞めるなんて・・・」と担当者に言われました。そこで紹介されたのはトラックの運転手や配達の仕事で、最終的にラグビー仲間が家業の冷凍食品のエビ、タコ、イカなどをお店に届けるアルバイトを紹介してくれ、いつでも好きな時に辞めていいからという理由からお世話になりました。
体育館のような-30℃の倉庫に入って注文書に書かれた商品を取り、トラックの荷台に積んで配達する仕事でした。夏は外気が30℃くらいだと60℃の温度差です。Tシャツにヤッケ(厚手のブルゾン)のようなものを着込んでいましたが、気温差が大きく体に良くないと思いました。途中で商品が融けてしまうので早く配達しないといけません。時折、ウェールズに行くために新聞社を辞めたのに、なぜ冷凍食品の配達をやっているのかと思うと気持ちがかなりめげ、早く行かなくてはと精神的に焦ったこともありましたが、留学資金を作るため1年間アルバイトを続けました。
ある時、こともあろうに配達先が西日本新聞の食堂でした。以前、自分が働いている時は正面から入っていたのが、通用口から入ると昔の記者仲間がいるのがチラチラ見え、みじめな姿で顔を合わせたくないと思いました。でも、これは思い切って行くしかないと思い「こんにちは」と言ってドアを開け、自分が選んだ道をやっていくしかないと覚悟を決め、踏ん切りがつきました。この時にこれからは自分がやりたいと思ったことをやっていこう、もうそれしかありませんでした・・・
■憧れのウェールズへ
1年が過ぎ、やっとウェールズに行く目途がつき、どうやって行くかを調べ始めます。当時、世界的にヒッピーブームでロンドン行きの片道切符でアルバイトを目的に渡航するというチケットがありました。海外渡航情報誌などで調べたところ、ヒースロー空港の入国審査は厳しく追い返された人もいることがわかりました。当時のポンドレートは500円くらいで、私は決死の覚悟をもって研究していたのです。いろいろ調べた結果、パキスタン空港で乗り継ぎ、コペンハーゲンに入って黒海を船で渡り、イギリスのハーウィッチ港から入国するルートで行くことにしました。
到着後、足元を見られると嫌なのでTシャツから背広に着替え、髪を整え入国審査に挑みました。もしかしたら1週間、2週間しか滞在できない、もしくは拒否されるかもしれないという不安に駆られながら、パスポートを差し出し押されたスタンプを恐る恐る見ると6ヵ月と書いてあって、「やったー」と思い、その瞬間少なくとも6ヵ月はいられると安堵しました。1977年、25歳です。まだ、何も世の中のことをわかっていない時期ですし、当時はまだインターネットもない時代で、先のことを何も考えていませんでした。ひとまずハーウィッチからロンドンに行き、2日ほどユースホステルで過ごしました。ここからいよいよウェールズの首都カーディフを目指します。
■粘り勝ちで57番のバスに乗車
カーディフはウェールズラグビー協会の本拠地で、「花園で見たウェールズの強さの秘密は一体何だろう、どういう教え方をしているのか知りたい。ウェールズではラグビーが生活に根付いていると聞いており、一日でも早くウェールズに行きたい。」と胸が高まっていました。事前に宿について調べていた情報では大半は5ポンドでしたが、現地で調べると2ポンドで食事付きで泊まれる宿がありました。駅に着いて早速その宿に片言の英語で「お宅に泊まりたい。日本から来た。」と言うと、相手は「予約していますか?」と聞くので「予約していません。」と言うと電話を切られました。その後、街を歩き、アームズ・パーク(ラグビー競技場)を見て、もう一度電話してみました。先ほどと同様にまた切られて、普通はそこであきらめると思いますが、こちらも必死でその宿にかけていますからもう一回電話したところ、その人は「わかりました。あなたには負けた。57番のバスに乗ってきてください。」と言われました。今でも57番とはっきり覚えていますね。
宿に着き部屋に荷物を置くと、横にある中学校でラグビーをしているのが見えました。早速、見に行き小さなカメラで写真を撮っていたら先生が、怪しげなアジア人を不審に思ったのか「いったいあなたは誰なのですか?」と聞かれ、私は「75年に日本に来たウェールズ代表の試合に感動してここにいる。全くあてはないのですが、ラグビーの勉強にきました。」というと、その先生は「あなたをラグビーの勉強をする一番良いところにつれていってあげる。」と言って、そこから4、5km離れたカーディフ教育大学という体育の先生を養成する学校に車で連れて行ってくれました。それから、変遷を経てカーディフ教育大学の聴講生になり、いよいよカーディフでの生活が始まります。
■華麗なウェールズ流ラグビーを習得
バスに乗り、その先生に出会い運命に導かれたのは、今考えても本当に不思議な出来事です。後でわかったことですが、ウェールズの多くのラグビー選手たち、ガレス・エドワーズ(※)などがこの大学の出身でした。
(※)1970年代にウェールズならびにライオンズ(イギリス、スコットランド、ウェールズ、アイルランド代表から構成される特別チーム)代表としてプレー。2002年11月6日のBBCスポーツサイトでは、最も尊敬されたスクラムハーフとして、堂々として情熱を持ち成功した中心選手と称されている。
最初に出会った人が「あなたは最初2週間と言っていたが、2回目は2ヵ月、結局最終的には2年いましたね(笑)」と言っていました。ウェールズでもアルバイトをしながら、2年間の学生生活を送りました。また、レベルは決して高くはないチームでしたが、実際にラグビーチームでプレーもでき、さらに指導体験もして、ウェールズ流のラグビーを身に着けました。
ウェールズではさまざまなことを経験し、ラグビーの試合では体がぶつかるギリギリのところで味方にパスしたり、ステップを仕掛けていました。15人ひとりひとりが個性を持っており、それぞれ動きが違い、パターンにはまっていないのです。個々の発想が自由で自分の持ち味を生かし、自由ながらもチーム全体が一つに向かっています。これが、どんなに状況が崩れてもクリエイティブで、新たに作り出せる強さなのです。
■ラグビー強国の秘密
大学の帰り道に4人の中学生が下校途中の公園で自分たちのカバンを四隅に置いて、小さなスペースを作り、2対2でタックルがなくタッチをされたら相手の攻撃に代わる「タッチラグビー」をしようとしていました。ボールがないのでどうするのだろうと見ていたら、コーラの空き缶を拾ってきて、それをボール代わりにしていました。ある時は、牛乳パックを丸めたり、新聞紙にガムテープを巻き付けたりして、それをパスして抜き合いを日が暮れるまで夢中になりやっているのです。
子供たちは「このプレーはこの前、ガルセドアがやっていたよ!」などと言いながら、有名な選手の真似をして、コーチはおらず自分たちだけでプレーに明け暮れていました。これが、やはりラグビーの強さにつながるのだと実感した瞬間でした。
ラグビーというスポーツはイギリス生まれなのですが、もともとスポーツをするのは「Play the game」と言い、Playは遊びとも言います。海外でのゲームはPlayするという遊びの要素もあるスポーツで、日本のように毎日コツコツ稽古を積んで晴れの舞台に出るという教えとは全く異なるものだと気が付きました。
海外ではまずゲームを楽しんでやってみて、うまくいかないところを翌週の練習で直していく。そしてまたゲームで実践していくというようにゲームが先にあるのです。先ほどの子供たちが2対2から、3対3、さらに徐々に参加人数が増えて、それと共にコートを大きくしていく。そういうことが遊びの中にも定着しているのです。遊びの中で練習に返していくという発想で、日本の練習そのものに価値があり、試合に出られなかったとしても日々の練習が大事だという考えとは違います。これはコーチングの考え方の違いによるものです。日本は精神主義的なところがあり、本当によいところでもあるのですが、実際にどちらが現実的な練習かというと練習や試合でできなかったことを直していくというほうがより現実的なのです。
■運命に導かれ、花園へ
充実した日々を送っていた最中、ICUのラグビー部の同期から手紙があり茨城県に新しい学校ができてラグビー部を指導する先生を探している。高校には担当する先生がいるが、中学には先生がいないので、帰って教師をやらないかという誘いがありました。ウェールズの生活は楽しかったのですが、はたと「そうだ、教師になるために新聞記者を辞めたのだ、帰らないといけない」と思い、そこで急遽5月に帰国することにしました。翌年の3月までまた日本でアルバイト生活を送り、その間に教員免許を取ることにしました。私のキャリアから考えると英語の教師が一番早く教職に就けそうだったので英語科の教員免許にターゲットを絞り、晴れて教員免許を取得し茨城県の茗渓学園という私立の新設校に赴任しました。
茗渓学園では英語を教えながら中学校のラグビー部の監督をしました。新設校でゼロからのスタートだったのでウェールズで習得した教え方を一から生徒たちに教えることができました。高校の監督になった時に中学で教えてからちょうど10年目を迎え、花園で両校優勝ではありましたが優勝することができました。その時のスタイルはまさに私が理想としていたウェールズでの個性を発揮するラグビーを実践したものでした。花園ラグビー場に行った時にまさにここでウェールズに出会い、また帰ってきたのだなと思うと感慨もひとしおでした。
実は、その大会中にミラクルが起きました。普通パスは次の人に渡すのですが、ある選手が3人飛ばしてパスし、スタンドオフからいきなりウィングまでパスしました。(※1)選手自身からこのひらめきが出たことは私の力を越えており、まさにこれが私の実現したかったラグビーです。常日頃から指導者の枠を超えるようなチームになって欲しいと思っていたので、自分でも非常に感動しました。本当に何が起こるかわからない、予測不能なことが達成された試合でした。
※1 創部9年目で初の決勝進出を果たし、スタンドオフの赤羽俊孝さんが準々決勝の天理(奈良)戦で行なった伝説のプレー
■「うまくいかなくともエンジョイしちゃえ!」
様々なきっかけでラグビーに足を踏み入れ、自分の人生がラグビーに引っ張られてきました。私がウェールズのラグビーが好きになったように、リスクを恐れず挑戦してみるということが、自分の人生観を表していると思います。チームを大事にしつつもまずダメモトでやってみるところが、今までの人生につながってきたのかなとも思っています。ラグビーワードカップの日本への招致活動を始めた当時、日本での開催するためには厳しい問題が多々ありました。これからも困難なことに立ち向かいながらワールドカップを成功させ、多くの子供たちがラグビーに親しんでくれたらこれはもう本当によかったなと思えるのではないでしょうか。
そして、カーディフで最初にラグビーの試合で負けた時にロッカールームで「エンジョイしたか?」と言われた時、私は「負けた試合をエンジョイするのか!?」と思いました。しかしながら、次第にエンジョイはただ楽しむということではなく力を出し切るのがエンジョイだということに気づき、それが今は私の根底にあります。そういった面白さが、自分は好きなのかもしれません。それがまさにエンジョイするライフというか、もっと極端に言うと「うまくいかなくともエンジョイしちゃえ!」というくらいの気持ちでやるということですね。
楽しんだかという日本語と必ずしも同義語ではなく、ちょっとニュアンスが違うと思いました。エンジョイは夢中になる楽しさなのだと思います。そこに夢中になると大変なことも見えなくなり、何も感じない状態なのだと思います。それが大事なのかなと思いますね。
君たちは何をめざすのか 《ラグビーワールドカップ2019が教えてくれたもの》
徳増様が6月2日に書籍を上梓されました。ワールドカップの舞台裏や東日本大震災で被災した岩手県釜石市の高校生からのメッセージなどのエピソードが詰まった一冊です。ぜひ、合わせてお読みいただけると幸いです。