引揚げの聖地・舞鶴市の地道な努力
「昨日は大変有意義な時間をありがとうございました。実際に戦後引揚げてきた方の話も聞けて良い会合でした。よくご無事で……と父の姿とだぶらせました。
戦後70年が過ぎましたが、息子や孫にも伝えていかなければ本当に風化して忘れ去られていくんだなぁと痛感! 過去について原爆や空襲の話は出ても抑留、引揚げについてはなかなか話題になることはありません。
「この夏、私も妹を誘って舞鶴に行ってみようかと思っています」
これは、先日開いたNPO日本ウズベキスタン協会の総会の時の感想である。総会の後、毎年、時の話題について対談などをしてもらっているが、今回は舞鶴市から副市長、引揚記念館館長ら3人のゲストをお呼びし、第二次大戦後に引揚者を最後まで迎えた舞鶴市の様子をお聞きした。
引揚げ受け入れ港は広島、佐賀など18港あったが舞鶴を除くと、2、3年で引揚げ事務の取り扱いをやめ閉鎖した。その中で舞鶴だけが13年間にわたり引揚者を受け入れ、引揚げの〝聖地〟とまで呼ばれた。帰国船が到着するたびに多くの舞鶴市民が岸壁で「お帰りなさい」「ご苦労さまでした」などと小旗を振って出迎えた。帰国者は舞鶴の緑の山をみて涙し「本当に帰ってこれたんだ」と実感したそうだ。また、捕虜となって帰国したので罵声を浴びせられることも覚悟していたのに、温かく迎え入れてくれ、白米のおにぎりや味噌汁などをふるまわれ涙にむせんだという。こうして舞鶴は13年間にわたり66万人の引揚げ事務を請け負った。
※感激の再会を果たした帰国時の画像(画像提供:舞鶴市)
舞鶴の引揚記念館には白樺の皮に空き缶の先を尖らせてペンを作り書いた日誌やシベリア抑留の悲惨な生活状況、留守家族の手紙、回想の記録画など約1000点が展示され、今でも毎年10万人以上の人が訪れる(舞鶴市の観光客は年間140万人)という。高台に立つ記念館からリアス式の小さな舞鶴湾は実に美しく近畿第一の美しい港湾に選ばれユネスコ世界記憶遺産にも登録された。
シベリア抑留者は悲惨な体験をしたためか、思い出を語る人が少なく舞鶴の名前を忘れていく人も多いようだ。
※舞鶴引揚記念館の敷地に埋められているウズベキスタンにてナボイ劇場を建立されたメンバーで組織した第4ラーゲル会が植えた桜
戦後流行した二葉百合子の〝岸壁の母〟の歌を知る人も少なくなってしまったという。記念館の丘にのぼると、各ラーゲリの関係者が植えた桜があちこちに立っている。
舞鶴市は2020年東京五輪のウズベクレスリングチームのホストタウンに名乗りをあげている。日本の本当の終戦は捕虜の人々が全員帰国して終わったともいえる。舞鶴が中心となって引揚げにかかわった各地の港で引揚げ記念祭を毎年開いたらどうだろう。
【財界 2016年8月2日号 第428回】
※トップ画像は五老ケ岳から見た舞鶴湾(画像提供:舞鶴市)