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9月1日 TBSラジオ『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』ゲスト:世界的に活躍されている写真家の石内都氏 一夜目 放送内容まとめ

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スタッフからのお知らせです。

TBSラジオ 『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』(日曜 21:30~)は様々な分野で志を持って取り組まれている方々をゲストにお招きし、どうして今の道を選んだのか、過去の挫折、失敗、転機、覚悟。再起にかけた情熱、人生観などを、嶌が独自の切り口で伺う番組です。2002年10月に開始した「嶌信彦のエネルギッシュトーク」を含め17年目を迎えた長寿番組です。

9月1日は写真家の石内都氏をお迎えした一夜目。通算884回目の放送でした。

以下、放送内容の抜粋をお届けします。

■写真家になったきっかけ
写真家になろうと思っていたわけではなく、環境が写真にむいていた。若い時はすごく暇でやることがなく、28歳ごろに友人からカメラ一式をもらい、たまたま自宅に暗室まで全てあった。使わなければゴミだが、使えば全て道具になるので使ってみようというのがきっかけです。

美術大学に入ったのは、高校の時に東京オリンピックがあり、その時初めてデザイナーという職業が表に出た。その前は図案家といわれていて、デザイナーとは何だろうと思っていると亀倉雄策さんの東京オリンピックの有名なポスターを見た時に、「わぁ、カッコイイなぁ!」と感銘を受けた。

亀倉雄策氏の東京オリンピックポスター

亀倉雄策氏の東京オリンピックポスター

こういう職業があるなら私もデザイナーになろうと思い美術大学に入学した。始めは平面デザイナーを目指したが、なかなかうまくいかず、ぜんぜんむいていなくて・・・

2年になると織科という全く関係のない織物の学科に行き、4年までいたが挫折して結局学校は辞めてしまった。その後、結果として写真に出会った。

■織りと写真の思わぬ共通点
初めて暗室に入った時、すごく懐かしい匂いがした。それはなぜかと言うと、私は学生時代に白い糸を染め、織り機にかけ織物をやっていた。その糸を染める時に色止めという薬を使う。それは、植物性の糸に塩、動物性の糸には酢酸を用いるので、写真は染物に近いなと思って、「これは、結構面白いかもしれないな」と感じ、暗室作業がすごく好きになった。

私は写真のことを全く知らなかったので、間違いながら自力で覚えていった。写真の学校にも行かず、友達に写真をやっている人がいたので、その友達に聞いたりして、いろいろと失敗しながら、気がつくといつの間にか写真家になっていた。

やはり写真の暗室作業が好きだったから、長続きしたのだと思います。私は、写真を撮りたくない。自分で現像もしているので、沢山撮ると大変で。だから、なるべく写真は少なく撮って、撮影をなるべく早く終わらせるというのが私の信条なのです。だから、今でも撮影枚数は少ないです。フィルムをなるべく少なく最低限の本数しか持っていかない。そして、フィルムが終わったら、そこで撮影をやめます。

■写真の魅力
カラー写真は大半をラボ(写真出力を行なうところ)に出しているので、現像された写真を見ると撮影の現場で実際に自分が見た世界と全く違う。その空間でいったい何を撮影していたのかということは、撮影中は忙しいから無意識。なるべくサッサと撮りたいので、実際の写真を見た時に考えるのです。

「私はこういうことを見たかったのかな」といったことを考え、そういう時間軸がどんどん変わっていくのが写真の面白さ。それは今でも同じなのです。いわゆる写真家という人は撮影がみんな大好きで楽しくやっている方が多いが、私は写真を撮るより現像している時の方がものすごく楽しい。

■暗室はトリップ
それは多分、織物をやっていたことにも関係があるんです。写真は水仕事で、白い布を染めるような感覚で写真もプリントする。私の写真はけっこう大きく、ロールプリントといって幅1m20cm、20mのロールになっている大判のプリント用紙を切って、自ら独りでプリントしている。暗室は密かで、何ともいえない。世界と分断されながら、写真の中に世界が写っている感覚はすごいゾクゾクして、ものすごく楽しい。別の世界に飛んでいくようなある種のトリップ状態のような感覚がある。

私の暗室はちゃんとした暗室として作ったものではなく、普通の部屋を真っ暗にして目張りをしたもの。赤いセーフティライトを「トットコ」つける感覚がなんともいえず、ゾクゾクして・・・・

まあ、そういうふうにして写真家になったわけです。

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多摩美時代の学生運動
学生時代は全共闘時代の真っ盛りの時代。私もバリケードの中に入っていました。機動隊が介入し、1970年にバリケードが解除された。多分、(大学を卒業しないとつけないような)職業には就かないだろうと思い、卒業証書はいらないなと大学を辞めてしまいました。(嶌も同じ世代で、バリケードの中に入っていた。)

全国の大学に学生運動が波及して、多くの美術大学でも学生運動が盛んだった。私が通っていた多摩美多摩美術大学)の場合は最後まで運動を続けており、70年10月21日の国際反戦デーの拠点になっているというウワサがたち、それで機動隊が入った。拠点でも何でもなかったんですけどね・・・

バリケード内での過ごし方
バリケードの中に織り機を置いて、夜中に織物を織ってました(笑)
私たちは黒いヘルメットをかぶって、ノンセクトといいますか、バリケードをやっていても中でやることがないので、自主授業をしていました。既成の授業はなく、学校は学ぶところだから当然、それらも含め自主的に学んでいくということがどういうことかを考えますよね。学校は広いし、時間もいっぱいあって。その時に学んだことが、今の私を作っています。ものすごく、当時の影響があるなと。

私は大学で映画研究会に入っていて、隣の部室が演劇研究会だったので合同でいろんなことをやっていた。演劇の練習や映画を作るといったことをやりながら、あとは本を読んだりして過ごした。まあ、普通の大学とはちょっと違って、私は参加しませんでしたが展覧会を開催している人たちもいたり、いろんな形で空間を使うことをやっていました。

■学生時代の転換点
いろいろ考えてみると、私はそれほど政治的な芽生えはなく、ただ間違っていることは間違っていると思っていた。例えば、その時に大学の移転闘争などがあり、私達の知らぬ間に新たな校舎を作っていたり、授業料の値上げなどに対するごくごく普通の闘争だった。

その中で、いろいろあって逆に私はいったいその時に何を達成したのかなという反省もあった。そして、70年に入ってからウーマンリブが台頭し、田中美津さんが出てくるようになり、結局今まで自分がやってきたことをどのように考えて、これから先どう生きていくかということを思い、私はそこで学生運動をやめてしまうのです。

写真に出会って、その時やってこられなかったことや自分がやり残したことも含めた表現として、写真は今ものすごくやりがいのあることになっていると思います。

70年前のウーマンリブが出てくる前の女性は、男性を助け、いつも男性の後ろで頑張っているという感じだったが、そんな女性たちのこれまでの不満やいろんなことが、それを境に全部新しく出てきた。だから、私はその流れでひよってしまった。そして、その後写真に出会って、あの時代にできなかったことなどを含めながら写真を少しずつやってきて今に至っています。

■改めて今注目された『百花繚乱』展
一番初め、写真を始めた時、『絶唱横須賀ストーリー』という個展の前、76年に女性10人を集めて『百花繚乱』展という企画をしました。実は、今それをアメリカ人のジャーナリストがものすごく熱心に調べているんです。女性10人で男をテーマに写真展をやったが、当時の写真界は全く無視、どこにも記録が無い。テレビと平凡パンチの取材だけだった。不思議な時代だったんです。

私は男のヌードを撮った。せっかくやるなら女が男を撮るという、しっかりしたテーマがないとダメだろうと。女はいつも見られる対象で、それを逆手にとって見てやろう。男を見るということで女を始めなきゃいけないんじゃないかと意気込んでやったんだけれども・・・

それが、今になってアメリカは歴史をすごくちゃんと調べる人たちで、そこをきちんと調べているんです。まあ、歴史がないからということもあると思うけれども。そのジャーナリストと日本人が共同で手がけている本があり、その調査で来た際に女性2人で同人誌を作っていたことが判明。その流れで『百花繚乱』展の女性10人が男をテーマにした展示をしたことがあるということが歴史的にドンドンわかってきて、今になって解明しようとしている人がいるというのはすごく面白い。

ウーマンリブの流れや私がウーマンリブに参加しなかったということも含めながら、当時ちょうど30歳でそのことを意識しながら、このままじゃいけない、これからどうやって生きていくのかというケジメにしたいと思いこの展覧会を企画した。

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■初期三部作登場のきっかけ
絶唱横須賀ストーリー』『APARTMENT』『連夜の街』初期三部作は私の足元をちゃんと見ようと思って撮った写真。私は6歳から19歳まで横須賀に住んで育った。その前は群馬県桐生で生まれ、横須賀に行き初めて基地を見た時の驚きがものすごくあって、いったいこれは何だろう。光が輝いているわけです。ただ、何かちょっと危険な感じがすごくあって、ちょうど思春期と重なり、身体的にも女になる時期で、やはりこの街が私が女であることを教えてくれた。

米軍兵による強姦事件は日常茶飯事でも治外法権で事件にならず、日本の警察は調べない。事件が表に出たのは、沖縄の95年の事件です。あの時、初めて強姦事件として公表され、犯人も捕まった。アメリカは占領しているから何をやってもつかまらないような街。私は、やはりよそ者でそこで生まれていないから、いろんなことが見えた。そこで生まれ、住んでいると見えないこともある。私はずっと違和感のようなものは何だろうという思いを抱いていて、東京に出て、写真を始めて「さて、私はいったい何を撮ろう」と思った時に、やはり私にとって遠い街は何処かと考えた。それが、横須賀だった。

■基地の街『横須賀』が示した自分の女性性
日本でありながら日本でない。それも含め、わだかまっている自分の精神的なもの、思春期の痛みや傷を受けたことに対し、敵討ちをしようと。私自身は危ない目にあったことはなかったが、環境的にはいろんなことがいっぱいあって、あの当時の横須賀は気軽に踏み入ることが出来る街ではなかった。今は普通に歩けるようになった『どぶ板通り』は、その当時は女性が歩いてはいけない通りで、ここへは絶対に行ってはいけないと言われていた。しかし、その理由を大人たちは教えてくれず、子供には理解できなかった。そうすると、「何だろう?」と考え始める。「何か変だな」、それが私が女性であることを教えてくれたことでもあり、そこから始まっているんです。

それで、はじめてきちんとしたものを撮るなら横須賀で、自分の足元をきちんと見ようということで誕生したのが『絶唱横須賀ストーリー』です。そして、私達家族4人は、横須賀の小さなアパートに住んでいたので、それも含めて撮ったのが『APARTMENT』。赤線(※)の由縁は高校の通学路に赤線があり、その入口は何ともいえない雰囲気で、とにかく空気が違う。毎朝、毎夕、気になってしかたがないが、誰も教えてくれない。ある日、赤線の入口だということがわかった。写真を始めてすぐにそこに行ったが、シャッターを押すことはできなかった・・・

基地の街が自分の女性性を教えてくれ、赤線はどこにでもあるが、はっきりした売春宿として存在している。初期の三部作は私にとって運命的に撮影しなくてはならないテーマだった。赤線は横須賀だけでなく全国まわって、いまだに撮っている。

(※)赤線:売春を目的とする特殊飲食店街。警察などの地図にその地域が赤線で示されていたためそのように呼ばれる。GHQにより46年に公娼制度が廃止された際も特例措置として地域を限定し続けられたが、58年廃止。『連夜の街』は全国各所の廃墟となった赤線跡(元遊郭)を記録した作品集。

■よそ物的視点
横須賀は出発点であると同時に、東松照明さん、森山大道さんをはじめ、いろんな男性の写真家が横須賀の写真を撮られているが、それは私の中の横須賀ではないという思いがあった。この方々が撮ったのはどぶ板通りで、あれはアメリカで横須賀ではない。本来の横須賀の姿は、実際に自分が体感してきたからこそ、私にしか撮れないという思いも含め、横須賀をテーマに撮ろうと思った。私は横須賀の街が大嫌いで、本当に嫌悪感というかゾッとするほど嫌な街だった。好きなものを撮るのは普通のことで、そこには高校時代、反戦基地闘争が盛んだった時代に対する思い入れもすごくある。

いつも雨が降っていて、基地の正面にデモ隊がいる風景をいつもバスの中から見ていた。友達の父も反戦運動をしていたり、私はよそからきて「よそ者的な視点」で見ていて同化できなかった。横須賀に対する、その距離感のようなものを写真に収めるという思いがあり、横須賀を撮り始めた。

■母への思い
今、ちょうど母の歴史を調べているが、母は当時としてはめずらしく、昭和9年(34年)に18歳で大型2種の免許を取得している。自宅には母がダッチブラザーというアメリカの大型車を運転していた写真が残っている。父が出稼ぎで横須賀市北部の追浜に行っており、私の小学校入学をきっかけに家族一緒に横須賀で暮すことになった。横須賀移住後、父の会社で米軍の運転手として女性のみを募集しており、母は父と一緒に面接を受けに行った。5人の募集だったが、3人しか受けず全員合格。当時、アメリカ車ジープを運転していた。

今、聞くとカッコイイと思うが、現実はものすごく差別された。父の親戚に「雲助(※1)の娘」と言われたこともあった。手に職を持ち、きちんと女性がイキイキと働いていて、私は母を尊敬しているが、世間の目はそれはそれは、すごかったのではないかと・・・

 

(※1)雲助:江戸時代、宿場や街道で荷物の運搬や川渡し、駕籠(かご)などを担ぐ職業の人をさす。定住せず住所不定な人が多かったことから、このように呼ばれていた。当初、人里離れた所で盗賊まがいの行為をした者を侮蔑した言葉として使用していたが、次第に宿場人足・駕籠かきと混同されるようになった。

一夜目は終了。二夜目は後日掲載します。

参考まで石内氏の写真集の一部をご紹介いたします。合わせて以下リンクを参照下さい。



なお、石内氏の個展「石内 都 展 都とちひろ ふたりの女の物語」が11月1日から来年1月31日まで東京・練馬のちひろ美術館にて開催されます。本展覧会では、新たにいわさきちひろ氏の遺品を撮り下ろしたシリーズ「1974.chihiro」29 点の初公開とともに、自身の母親の身体や遺品を撮影したシリーズ「Mother's」も展示が予定されています。
詳細は以下リンクを参照下さい。

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