時代を読む

ジャーナリスト嶌信彦のコラムやお知らせを掲載しています。皆様よろしくお願いいたします。

「中央アジア文化交流ミッション」ウズベキスタン・タシケントでの一日

スタッフです。既報の通り嶌は2日より国際交流基金主催「中央アジア文化交流ミッション」に参加しております。昨日はスルタノフ氏が館長を務める抑留者資料館の視察後、日本人墓地にて献花を行ないました。

NHKニュースにてこの模様が報じられております。
※以下リンクをクリックすると別ウィンドウで記事を閲覧できます。
「首相夫人らウズベキスタンで日本人抑留者を追悼」
嶌のコメントが掲載されましたので、一部抜粋してご紹介いたします。

ウズベキスタンとの文化交流事業に訪れている昭恵夫人や、デザイナーのコシノジュンコさんなど日本からの代表団は4日、首都タシケントにある日本人の墓地を訪れ、慰霊碑に花をささげて亡くなった人たちを悼みました。また、一行は、日本人抑留者に関する資料館を訪れ、抑留者が建設した現地の劇場の写真や、建設現場で使われた道具などを見て回りました。

昭恵夫人は「日本人の墓地をウズベキスタンの方たちが大事に、きれいにしていただいているということに感謝しますし、ここで亡くなられた日本人に感謝と哀悼の意をささげたいという思いでお参りしました」と話していました。また、代表団の団長を務めるジャーナリストの嶌信彦さんは「国外でなくなった人たちをお参りすることは大事なことだと思うし、この墓地を守ってくれているウズベキスタンの方々にも感謝したい」と話していました。

また、安倍昭恵様がフェイスブックに訪問の様子を記載されておりました。

その後、ウズベキスタンの次世代リーダーとの意見交換が故平山郁夫画伯のご協力により創設された文化遺産の調査・研究・研修・展示施設「国際文化キャラバンサライ」にて行われました。


嶌が会長を務める日本ウズベキスタン協会の理事であるジャスル・ヒクマトラエフさんや3年前にウズベキスタンを訪れた際にガイドを務めて下さったシュンコル・ショムロドブさんなどが参加されました。

ジャスルさんより当日撮影した写真が届きました。

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また、安倍昭恵様がこの様子につきましてもフェイスブックに記載されましたので、ご紹介いたします。

 
その後、嶌の「日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた」の舞台である「ナボイ劇場」にてDRUM TAOの皆さんの公演を鑑賞いたしました。その様子も安倍昭恵様がフェイスブックに記載されておりますので合わせてご紹介いたします。

 

国際交流基金主催「中央アジア文化交流ミッション」の様子:ウズベキスタン

スタッフです。国際交流基金主催の「中央アジア文化交流ミッション」に参加のため2日に嶌が出発いたしました。今回ウズベキスタンの文化人や若手次世代リーダーの方々との交流など様々な企画が予定されております。

昨日、安倍昭恵様がフェイスブックにミッション参加者との写真を掲載されましたので、ご紹介いたします。

なお、安倍昭恵様は嶌が会長を務めるNPO法人日本ウズベキスタン協会の会員でもあり、様々なイベントにも参加いただいております。

引揚げの聖地・舞鶴市の地道な努力

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「昨日は大変有意義な時間をありがとうございました。実際に戦後引揚げてきた方の話も聞けて良い会合でした。よくご無事で……と父の姿とだぶらせました。

 戦後70年が過ぎましたが、息子や孫にも伝えていかなければ本当に風化して忘れ去られていくんだなぁと痛感! 過去について原爆や空襲の話は出ても抑留、引揚げについてはなかなか話題になることはありません。

 「この夏、私も妹を誘って舞鶴に行ってみようかと思っています」
 これは、先日開いたNPO日本ウズベキスタン協会の総会の時の感想である。総会の後、毎年、時の話題について対談などをしてもらっているが、今回は舞鶴市から副市長、引揚記念館館長ら3人のゲストをお呼びし、第二次大戦後に引揚者を最後まで迎えた舞鶴市の様子をお聞きした。

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NPO日本ウズベキスタン協会総会時の画像

 引揚げ受け入れ港は広島、佐賀など18港あったが舞鶴を除くと、2、3年で引揚げ事務の取り扱いをやめ閉鎖した。その中で舞鶴だけが13年間にわたり引揚者を受け入れ、引揚げの〝聖地〟とまで呼ばれた。帰国船が到着するたびに多くの舞鶴市民が岸壁で「お帰りなさい」「ご苦労さまでした」などと小旗を振って出迎えた。帰国者は舞鶴の緑の山をみて涙し「本当に帰ってこれたんだ」と実感したそうだ。また、捕虜となって帰国したので罵声を浴びせられることも覚悟していたのに、温かく迎え入れてくれ、白米のおにぎりや味噌汁などをふるまわれ涙にむせんだという。こうして舞鶴は13年間にわたり66万人の引揚げ事務を請け負った。

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※感激の再会を果たした帰国時の画像(画像提供:舞鶴市

 舞鶴の引揚記念館には白樺の皮に空き缶の先を尖らせてペンを作り書いた日誌やシベリア抑留の悲惨な生活状況、留守家族の手紙、回想の記録画など約1000点が展示され、今でも毎年10万人以上の人が訪れる(舞鶴市の観光客は年間140万人)という。高台に立つ記念館からリアス式の小さな舞鶴湾は実に美しく近畿第一の美しい港湾に選ばれユネスコ世界記憶遺産にも登録された。

 シベリア抑留者は悲惨な体験をしたためか、思い出を語る人が少なく舞鶴の名前を忘れていく人も多いようだ。

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舞鶴引揚記念館の敷地に埋められているウズベキスタンにてナボイ劇場を建立されたメンバーで組織した第4ラーゲル会が植えた桜

 戦後流行した二葉百合子の〝岸壁の母〟の歌を知る人も少なくなってしまったという。記念館の丘にのぼると、各ラーゲリの関係者が植えた桜があちこちに立っている。

 舞鶴市2020年東京五輪ウズベクレスリングチームのホストタウンに名乗りをあげている。日本の本当の終戦は捕虜の人々が全員帰国して終わったともいえる。舞鶴が中心となって引揚げにかかわった各地の港で引揚げ記念祭を毎年開いたらどうだろう。
 【財界 2016年8月2日号 第428回】

※トップ画像は五老ケ岳から見た舞鶴湾(画像提供:舞鶴市

 ※コラムに登場する二葉百合子様の「岸壁の母」の映像

一触即発の大乱危機

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世界各国でその国が持っていた社会常識、倫理感などが次々と崩れるような事件が相次いでいる。日本では70-80歳台などの老人や年上の女性が20-30代の若者、青年に殺害される事件が目立ってきた。かつては尊属事件などで、若者が年配者を殺傷する事例はあったが、最近のように動機も刹那的で見知らぬ人を殺傷に及ぶことはほとんどなかったように思う。

イギリスでは、まさかとみられていたEU離脱国民投票で決めてしまった。離脱を決めてから慌ててイギリスに不利となる貿易などのEU条件は適用しないで欲しいと言い出している。イタリア人は駆け出した後で考える国民性を持つが、イギリス人は歩きながら考えるといわれていた。なのに後先の損失を考えず大衆心理に乗ってしまったかのような今回のEU離脱決断は、考え深いとされたイギリスの国民性に似合わない。

アメリカでは、融和が進んでいるようにみえた白人と黒人の分断図が再び鮮明になっている。発端は白人警官が、身分証を出そうとした黒人をいきなり射殺した事から始まった。この行為に反発するデモが全米で起こったが、今度は「白人が憎い」と黒人が白人警官数人を射殺、黒人と白人の衝突が全米各地で発生した。すると白人警察官は、無人ロボットを使って取り締まりに乗り出したという。オバマ大統領は「刑事司法制度の中にまだ人種差別が残っているのではないか」と述べている。

イラクのバグダットでは一度に約300人が死亡する爆弾テロが発生、一回のテロで犠牲となる人々の数がウナギ上りに増えている。中東や西南アジアでは爆弾テロによる死傷者数に鈍感になっているようだ。イラク戦争、アフガン戦争、イスラム国のテロなどが相次いで発生しているうちに、人命がどんどん軽くなってきたように思う。

中国もまた、南シナ海問題を巡るフィリピンの国際仲裁裁判所への提訴に対し、前政権で外交トップだった戴秉国(たいへいこく)・前国務委員が「仲裁裁判所の判決などただの紙くずだ」と判決前から批判して驚かせた。中国の立場を事前に鮮明したともいえるが、仲裁裁判所の判決は中国側の全面敗訴だった。中国政府要人やメディアは国を挙げて反発し、南シナ海の領有権は昔から中国のものだったとキャンペーンを繰り返している。

ただ、中国は一方で国際的価値基準を尊重したいとも言ってきた。中国は太平洋進出に関しては一切妥協しない姿勢を示し続けているが、6月の中国と東南アジア諸国連合(ASEAN)の外相会議でも王毅外相が仲裁裁判所の判断は無視するとの根回しを行ない、カンボジア、タイ、ラオスブルネイなどが中国支援にまわりASEANの分断化が事実上明らかになっている。中国は今後も、同じ調子でアジアの分断化を図ってゆくつもりなのだろうか。しかし、カネと力づくで国を抑え込もうとしても、その試みはいずれ失敗しよう。

少なくとも2000年代までは自由な市場主義、各国の主権と人権の尊重、力の支配に対する批判、国際的平等などに対して共通の尊重があった。ところが、ここ1-2年でそうした常識、規範が一挙に崩れてきたのではないか。どの国も自国優先主義になり他国との国際協調は二の次になってきた。それをあからさまにムキ出しているのが最近の中国の姿であるようにみえる。

問題はこれからの日本の出方だ。裁判所の判決を楯に中国を攻め立てても解決しそうにないし、再び日中関係をこじらせる結果に発展しかねない。まずは中国の狙いが、本当にアジア太平洋進出の軍事拠点の一つにしようとしているのか、それとも漁業や海底資源の獲得にあるのか、あるいはASEANの分断化を考えているのか。日本はまず政府レベルだけでなく、ASEAN諸国や民間レベルなどあらゆるルートから中国を話合いのテーブルにつかせるような努力をし、そのことを世界にみせるべきだろう。その上で中国の本音を知って解決への道を探ることだ。

中国は上り調子の国だが、まだ成熟した国になっているとは言い難い。世界が安定的に成長してゆくには、国際社会が認める国際的な価値基準を尊重すべきことをみんなで説くしかあるまい。世界大乱のきっかけが南シナ海問題から発することだけは、何としても避けるようにするのが日本の役割であり、その覚悟を持つべきだろう。

*九段線
中国が南シナ海に九つの破線をU字形に描き、その内側は自らの主権が及ぶと主張する境界線。1947年に国民政府が引いた「十一段線」を中華人民共和国(中国)が踏襲し「九段線」に変更。
【Japan In-depth  2016年7月20日】
※なお、掲載頂いたJapan In-depthサイトには日本語の地図を掲載頂いておりますのでご興味をお持ちの方は合わせてご覧ください。

画像:flickr.com vizpix

理化学研の再建に立ち上がる松本理事長

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 野依良治氏の後任として新しく理化学研究所の理事長になった松本紘氏は一見すると眼光鋭く、謹厳実直なこわそうな学者タイプにみえる。しかし、一度話始めると小さい頃から苦労され、多くを独力と恩師、国際的な仲間に支えられて京大総長から理研理事長まで上りつめられたユニークで極めて努力家であり、話の面白い方だった。
理研小保方晴子さんの事件で一時評判を落としたが、日本で最高級の人材を集めた大学以上のシンクタンクといえる。活動的で構想力豊かな松本紘氏の話を字に書き起こした。(TBSラジオ毎週日曜午後9時半から放送している『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』の6月12日と19日の放送から一部紹介したい)

 収録時、松本氏の名刺をもらって驚いた。生まれてから今日までの経歴を10枚以上の写真で綴ってあり、裏をめくると小さい頃からの日記や文章、絵などが書いてあるのだ。こんなユニークな名刺を頂いたのは初めてのことだっだ。拡大してぜひご覧になって頂きたい。

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画像:松本理事長の名刺(経歴)


【京大へ~本当は社長になりたかった~】
 もともと大学で工学部で電子工学を学んでいた。就職を希望していたので工学部に入学したが、ひょんなことで大学院に行き、助手として大学に残ったことが今日の人生の始まり。本当は大学以外の所で活躍したいと思っていた。

 背景としては家が決して豊かではなく、食べていくことが基本だったからだ。当時は家庭の事情から就職できて仕事を頂き、その仕事がおもしろければよいとも思っていた。私も一緒に働かないと食べていけない状況で、奨学金をもらっていたのでそれで学業に関することは購入できたが、アルバイトをして家にお金を入れており、生きるということが最初であった。


【松本氏の知識の蓄え方】
 私は工学部を出たがやってきたことは理学や工学のあいのこようなことをやってきた。それだけでなく関心は人としての関心があって、なかなかうまく表現できないが、高校の頃は文学部に行きたかった。文学部ではあまり稼げないということがわかっていたので諦め、理系に行くことに。

 私は様々なものへの関心がある。ただ、関心があることと知識があることは別であり、知識がなければそれを補わなくてはならない。補うやり方が非常に苦手で、大抵の方、嶌さんもそうだと思うが、書籍を読んだり、人にインタビューしたりして知識を蓄えるが、私は片目が悪く(かたや1.2とかたや0.1)、沢山の本をじっくりと読むことが出来ない。
じっくり読むか、はしょって読むか速読かと言ったら後者しかなく、いろんな本を見るというのをたくさんやってきた。エッセンスは2、3行であるから、どこがエッセンスかをパッパッパッとめくってみる。

 私の場合は研究管理をやっているので、いろんな研究分野の人の本を読んだり、いろんな知識があったり、社会情勢を知らないといけないので多くの事を知る必要性があると思っている。そうするとゆっくり読んでいられないということになる。


【一転して大学院へ進学】
 まあなんとなく会社に入って技術者としてやっていこうと考えていた。どうせ技術者になるなら会社というものがよくわかっていなかったものの、社長になろうと思っていた。当時工学系では日立が一番大きい会社のように思ったので、日立の社長になってやろうと思って、4回生の時に実習に行った。日立は素晴しい研究をしているし、大きい会社なのでいいなと思ったが、自分たちの時代は学部の半分くらいは大学院に進学するようになっていた。
4割は就職、6割は進学という中で、世の中これから修士号くらいもっていないと会社といえどもよくないというウワサが流れた・・・


【教育熱心な母】
 母は負けん気の強い人で、子供に教育をしたいけど財政的にしんどい。本がないので、本を持っている人の家に行って、しかも、ライバルと思われるよくできる子の家(たまたまお医者さんの家)にいって絵本を物色して借りて来て、その絵本をそっくり絵も字も写していた。111ページもあったのですが、根性ありますよね。つけペンで書いてるんですが、誤字が全くない。絵も非常にきれいに書いていた。弟もいたので、1冊で二度おいしいという感じで、まあ頑張っていたんじゃないですかね。

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※画像は、松本理事長の名刺(小学生時代の絵日記)


【友達が財産】
 昭和17年生まれで中学校の時は13クラスあり、55人。同級生にボス的な存在の人がいて守ってくれていた。京大の総長になった際も「いじめられてないか」と言って電話をかけてきたことがあった。友達が財産。高校は奈良の女子大の付属高校に進学。特待生として奨学金をもらう。大学は京大に奈良の郡山から2時間かけたら通えるというので京大を受験。


【今なお自分たちの軸を持ち続ける京都】
 京大は行政府から遠いが、反権力風土の強い。法経は批判的で在野的なカラーを作りだしていた。私はニュートラルだが、大学は左派。批判的なことをやっているとどうしてもそうなる。「国の要望をそのまま受けるのはケシカラン。」と、情報を京大から文科省に与え、提案をして様々なものを獲得してきた。モノの動かし方を知らない人があれこれ言う。東京に対する対抗意識は、京都というより関西の文化だろう。今は関西が弱くなったが、京都にはその風土が残っており、自分たちの軸を持っている。

 京都の上場企業は優秀な企業が多く、いまなお本社を京都に置いている。ベンチャーの創始者は京大で学んでいる人も多く、小さい町だからつながって産学連携も盛ん。知事と商工会会頭、京大総長、お茶・お花の家元(文化人)が月1回朝食会をする。それは東京ではできない。小さいがゆえのコミュニケーション。私の学生時代、教授たちは祇園にツケで飲んでいて、私の指導教官の前田憲一先生、大林先生も洒脱で面白い人達だった。


【産業界への夢を持ち続けたが・・・】
 私は一つの事をじっとやるのが苦手で、まわりの人は「マグロ人間に見える」と、要は止まったら死ぬ。というような性格、当時ごとに一番面白いと思うテーマを変えてやっていた。

 その後、研究主体の研究室に行き助教授になったが、本心はまだ産業界への夢はあり63歳の定年退官時にある会社の社長に内定していて「やったー」と思っていたら、副学長に推薦されあと3年のばしてもらい、その後総長に選ばれてしまって、結局9年も務めたら話は無くなってしまった。


【充実したアメリカ生活】
 教授になった時にこのままじゃ面白い人生を歩めないから、外国にいこうと思った。理由の一つに家族サービスもあり、家内とは高校時代からの知り合いで24歳の時に結婚。すぐ子供が生まれたが双子で一人が生まれ落ちた時に酸欠になり脳性小児麻痺になった。私の母とその母(祖母)の面倒も見てもらい、大変な苦労をさせていたので家族サービスも必要と思っていた。アメリカのNASAに決まり、天文学で未知の世界だったが最終的にはこれならできると思い2年滞在。

 アメリカの学者のネットワークを作り、それが後々の国際学会を作る基礎となった。人間関係が重要と思い、「覚悟とは真実を巡る人間関係である」。書物、論文を通じて知る人間関係。人間は学問といえども一人ではなにもできない。いろんな人の影響を受けていることを強く認識し、いろんな人と交流できたことは良かった。


【実際に人に会うことの大切さ】
 論文だけでは広まらず、素晴しい論文を書かれた人で会ってみたら「たいしたことないな」という人もいる。討論したらわかるが、その逆もある。論文だけみてたら「パッとしないな」と思ってもお会いしたら、その分野ではこの程度でも、他の分野と複合したらすごい人だなということもある。だから、会ってみないとわからない。ということで国際学会を作ってみたり、国際的に教育をしようと思いインターナショナルスクールを作ってみたりした。


【思いがけず京大総長に】
 総長は普通は大きな学部から出るが、私は部局だと助手までいれても40人と少ない。前の総長の尾池先生が「財務担当をやってくれ。わからない君だから改革できる。」と言われた。固辞し、「研究はできる」と言ったら研究と財務をやることになり、引き受けたからには簿記の勉強や財務部の部長を集めて一夜漬けで勉強したら結構物知りになって、5、6個仕事をもらっていろいろやるようになった。
他の副学長が何人かいたが、そのうちの一人が高校の後輩で「あまり張り切らんといて下さい。僕らが働いていないように見えます。」と言われたりもした(笑)そういったことが、学内から見えていたので総長になったように思う。

 私はのろいのが嫌いで全てがクイックレスポンス。例えば、山中さんのノーベル賞に繋がる取り組みとして、実際研究を見た時に、チャレンジングで生物学の歴史を覆すと思った。古い細胞が全く新しく生まれ変わる。まだねずみの時代で、「人にも適応できるのか」と尋ねたら「もう2、3年したらできる」というので、「世界はどうか?」とたずねると「世界も競っている」とのことだった。
一研究者の研究のままでは負けると思ったのでセンターを作ろうと思い、ある仕組みを作り2カ月でセンターを作った。当初は数人だったが、総長の権限で作ったところあっという間に2、300人の組織になった。これはクイックレスポンスが成功した例。


理研理事長に】
 研究者は自分の研究を世の中に出すのが望みですから、その場があるというのは有利。今日本からアメリカやヨーロッパに出て研究しようという人が非常に減っている。特にハーバード、MITの学長から「日本からはもっときてよ。かつて日本から優秀な人達が来ていた。」と言われる。激減した理由の1つは日本に帰ってくる場所がないからだ。これは大変な問題だと思っており、理研では優秀で故郷に錦を飾るような「錦プログラム」「シャケプログラム」を作っていい研究者を迎えようと思っている。

 理研は幸い大学よりは一人の研究者に割り当てるサポートが大きく、アメリカほどではないながらもアメリカに近い環境を提供できる。場合によってはアメリカに勝る環境を与えられるので、優秀であれば帰ってもらえるし、バッファーを置いて大学にも帰ってもらえる。

 小保方さんの事件は、理研で結論を出してから私が赴任したので詳しいことはわからないが、結局ES細胞をIP細胞と見間違えたのではないかと思う。理研には99.9%本当にいい人がいて、どんなにいい人がいて、こんな研究をしているということをもっと世の中に知ってもらいたい。同時にそういう不正が起こってはいけないということをきちんとやる。

 例えば113番目の元素を理研が世界で初めて作った。あれなんかは、外国のニュースの方が大きく取り上げていた。日本でもだいぶ騒いで頂き、いい意味で報道頂いたが外国のメディアの扱いはもっとすごい。かなり大きな発見・発明だったが、ああいうものは大学ではできない。森田浩介先生がやったが、二つの理由から大学ではできなかった。
一つは装置がない。もう一つは長らく成果が出ないと大学に居ずらくなる。理研は成果を確信し、23年間ずっとサポートし続けた。一つのテーマをがっちりやられた。本人の根性もすごいが、見守っている組織が重要。大学では3年で成果が出ないと居場所がなくなるような世界。これではこの研究は成し遂げられない。


理研コンツェルン
 理研は来年創立100周年。それにしては日本人の間であまり知られておらず、これまでの100年は輝かしい。意外と知られていないのは、理研は大正時代に列強の中で政府としては大変不安に思い高峰譲吉先生、渋沢栄一さんなど先見の明をもった人たちが研究をやらないといけないと。当時帝大もあったが、帝大だけではできないと財団法人の研究所をつくった。
2代までは皇室から総裁を迎え、3代目の所長が大河内正敏という立派な先生が東大からきて、43歳。商才があり「理研コンツェルン」、理研産業団を作り当時日本は産業で外国に勝てなかったが、勝てる会社をつくろうと63の会社を作った。大河内さんはその会社のすべての社長を兼任して、各会社には専務しか置かなかった。研究者であると同時にビジネスも見渡せた人。戦争に負けて、財閥と思われ解体。
コンツェルンの中でまだ残っているのがリコー、アサヒペンタックス協和発酵ピストンリングのリケン、リケンビタミン(リケンのわかめちゃん)。これらはみな理研から出た会社。今は理研と親しむ会を作って頂き、大きな財務サポートはもらっていないが、いずれもっとコアな産学連携をもう一度再構しようと思っている。


【会社ぐるみのような不正に関して】
 社会が複雑になって、様々な規制がありその規制をすり抜けるような悪知恵がある人は当然社会の一部にいるが、一番の基本は何かというと「日本人の倫理観が変わった」。恥の文化といわれた「菊と刀」に書いてあるルース・ベネディクトの言葉自体が逆になっている。矜持や恥の文化が随分と薄まってしまったという気がしている。
そこに根源的なものがあって、要するにアメリカ流の札束でビンタするような文化が日本にドッと入って来て、それ自体が1つで入ってきたわけではなく、民主化やデモクラシーのような戦前の日本の社会制度、経済制度を否定するような形で入ってきて、一緒になって入って来たものだから札束でビンタ文化が必ずしも日本の古来の相手を思いやる、大事にする、周りを思いやる、謙虚である、人間なのである程度欲を抑制する、それらのことが忘れ去られている。これにすべて根源的なものがあるように思う。

 誰の心にも自分は得をしたいという気持ちがある。キリスト教文化のように100%人のためはありえないから半分人の為というのが最高だと思う。ちょっとでも人の為、相手がどういう気持ちでいるか、相手の状況はどうか。ここまでやったら自分は恥ずかしくないのか「天に恥じず」という言葉にあるような気持ちをぜひリカバーして欲しい。

 産業界の問題も一人一人を捕まえて話をするときっといい人。組織になるとそういうことが起こっているのは人間の性かもしれない。これをいろんなシステムで解決する必要があるように思っている。

TBSラジオ嶌信彦 人生百景「志の人たち」』(毎週日曜午後9時半から放送)
 http://www.tbsradio.jp/100kei/
 6月12日と19日の放送から一部抜粋

 

◆お知らせ
 ・今週日曜日(31日)は東京都知事選特別番組放送のため、『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』はお休みとなります。振替放送は決定次第オフィシャルサイト、SNS等でお知らせいたします。

 なお、次回のゲストは水族館プロデューサーの中村元様。魅力ある水族館をつくるために何が必要なのか、また本来の水族館の楽しみ方につい てや、中村様オススメの水族館についてお伺いする予定です。前週のほうそうがただいま番組サイトで公開中です。お聞き逃がしの方はぜひお聞き下さい。

日本は1000年ぶりの地質大変動時代に! ―2030年代に再び巨大地震か―

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 先日、火山地質学や地球変動学の権威である京都大学大学院教授・鎌田浩毅氏にお会いして最近の地震や火山爆発などの話を伺った。

 まず、鎌田教授の服装にびっくりさせられた。カーキ色のジャンパーのような上着に火山を思わすような真っ赤な図柄が描かれ、上着の下はこれまたユニークな模様のTシャツ姿だ。夏には火山模様の浴衣を着て講義をすることもあるという。毎週の講義に変えるので火山、地質などをデザインした服は50着以上に及び「ボーナスは服で消えました」と笑う。またその話ぶりも猛烈で、まるで火山が火を噴いているようにエネルギッシュだ。京大で1、2位を争う名物授業で聴講生は400人以上の人気という。

 

活断層は日本に2000カ所―
 鎌田教授によれば、5年前の3.11東日本大震災以降、日本は1000年ぶりの大変動の時代に入り、今後想定外の地震や噴火の自然災害が次々と続くそうだ。東日本大震災だけをとってもその余震などは30年続くという。東日本大震災震源域は南北500キロメートル、東西200キロメートルに及ぶ広さだった。

 日本には岩盤の弱い活断層といわれる場所が2,000カ所あり、うち100カ所が活動中とされる。原発の下の活断層が話題になるが、日本は活断層の上にあるようなものなのだ。地球科学からみると、東日本大震災をおこした地下の活動は全く終わっておらず、静穏期になるまでに数十年はかかるそうだ。

 一番心配されているのは南海トラフ巨大地震だ。日本列島はプレートと呼ばれる4つの岩盤が押し合いへし合いしている変動地域の上にあり、特に東海、東南海、南海の3つが連動しておこる南海トラフ巨大地震が同時に来ると巨大災害になるという。静岡沖から宮崎沖までの深海4,000メートル地帯では、ほぼ間違いなく2030~2040年(2035年プラスマイナス5年)のうちに大地震がおこるという指摘。その場合、マグニチュードは9.1以上、20~35メートルの津波、32万3,000人の死傷者、被害額200兆円以上と予測されている。日本は4つのプレートがひしめいているので、“4つの恐怖”があるといわれる。海の地震、陸の地震、西日本震災、火山噴火である。近年の雲仙普賢岳、東京の三原山、鹿児島の桜島御嶽山西之島の噴火等では大きな話題となった。マグニチュード9クラスの巨大地震が発生すると、同じ海域内で10年以上たってから大地震がおきることがある。たとえば、明治三陸地震(1896年)で死者2万1,000人以上を出したが、それから37年後に昭和三陸地震マグニチュード8.1)が発生、3,000人の犠牲者を出した。

私たち人間の時間軸は普通1週間程度だし、企業の経営計画も1年、中長期でも3~5年程度だが、地球科学では50年、100年などが当たり前なのだ。普通30~50年に1回と聞けば、自分の生きているうちには来ないと考える。しかし、最近の災害は40~50年ぶりとか、70歳台の老人が「こんな災害、生まれてから初めて」などと話すのをよく聞く。近年は世界的にも40~50年ぶりの災害が発生する時代になっているのかもしれない。

 

―9世紀の日本と酷似する現代、富士山の爆発も―
 鎌田教授によれば現代は9世紀の日本と酷似しているという。869年に発生した貞観地震は今回の東日本大震災と同じく東北地方で起き、9年後には相模・武蔵地震という直下型地震マグニチュード7.4)が関東南部で発生、さらにその9年後の887年(仁和3年)には、仁和地震と呼ばれる巨大地震マグニチュード9クラス)がおきて大津波が発生、その間に富士山、阿蘇山開聞岳などが噴火した。21世紀にあてはめると、東日本大震災がおきた2011年の9年後の2020年に東京オリンピックが開かれるが、単純計算ではその頃に首都圏に近い関東で直下型地震がおき、9年後の29年過ぎに南海トラフ巨大地震がおこる懸念があるということになる。

 気になるのは富士山の噴火だろう。富士山にはマグマ溜まりが地下20キロメートルあたりにあり、火山学的には100%噴火するスタンバイ状態だという。一番ひどいケースは山体が崩壊することもあり得るといい、火砕流の発生、山体変容など5つのケースが予測されているそうだ。ただ地震は突然来るが、火山の噴火には1週間から1カ月ぐらいの余裕があるそうで予知は可能のようだ。

 

―「想定外」の事態に備えよ―
 大変動時代に入ると突発的に地震や噴火がおきるので「予測と制御」が機能しにくい。従って常に「想定外」の事態を考えておき、突発的出来事に対して柔軟に対応する「しなやかさ」を普段から持ち、考えておくことが必要だという。企業も東京一極集中にこだわらず、東京で大災害がおきた場合の第二、第三の対応を考えておくことが重要なのだろう。

 鎌田教授は、学生時代に地質学を専攻したが、授業にも本にも興味が持てず、さっさと卒業して普通の企業に就職したいと考えていた。ところが“受けては落ち”の連続で、結局通産省の研究所に入って研究を続けている時、阿蘇山の9万年前の噴火跡のカルデラ(直径約20キロメートルの陥没)を見て、その広大さと、エネルギーのすごさを実感して本気で勉強に取り組むようになったという。いま阿蘇山カルデラを形成するような爆発があると、九州全体に20センチメートル、大阪で10センチメートル、東京でも5センチメートルは積もる火山灰が降り注ぐだろうと想定されているそうだ。自分の人生を振り返ると、本物の自然と良い師匠に出会ったことで火山、地質学の道に入ることになったといい、その経験から対象の学問、勉強だけでなく周辺の広い知識も持てるような“一生ものの勉強”が大事で、そこから人生に必要な“直感”も磨かれていくと説く。


(8月21日と28日の日曜午後9時半からTBSラジオで2回にわたりインタビューの模様を放送予定。詳細は嶌信彦オフィシャルサイト等で発表)
TSR情報 2016年7月27日】

 

昨日のTBSラジオ「日本全国8時です」の内容~都知事選直前、過去の都知事選と都知事を振り返る~

スタッフです。
昨日の「森本毅郎・スタンバイ」の「日本全国8時です」の放送内容をお届けします。

テーマ:過去の都知事選と都知事を振り返る


【過去の都知事にはこんな特色も】
今回は、いよいよ都知事選の投票日が日曜日に迫ってきたということで過去の都知事選を振り返ってみたいと思う。今回の都知事選は21人立候補しているが、今後の東京はどういう課題があるのかという政策論争があまり盛り上がっている感じがしない。

過去の都知事を振り返ってみて、それぞれの特色があったような気がするので、過去の都知事選を振り返りながら、今後の都知事選を考えてみたい。

f:id:Nobuhiko_Shima:20160726123617j:plain安井誠一郎氏(画像はWikimedia Commonより)


【初代都知事は復興の知事】
これまで東京都知事を務めたのは8人。最初に都知事を務めたのは安井誠一郎氏。その後、1947年に初の公選となった都知事選で接戦を制して初代都知事に就任した。元々は内務官僚で関東大震災の復興に携わったり、戦前に官選の新潟県知事を歴任後、東京都長官になるなど内務官僚としてさまざまなことに取り組んできた。私が安井氏のことで覚えているのは、選挙の際「肉は安い」という言葉をキャッチフレーズにしていたこと。戦後復興というのがこの人にとっては大きなテーマだった。

東京というか日本の戦後復興に大きく携わった方であり、先に述べたように戦前も関東大震災の復興に携わった方でもあり、そういう意味では「復興の知事」と考えてよいと思う。

f:id:Nobuhiko_Shima:20160726153630j:plain東龍太氏(画像はWikimedia Commonより)


【インフラ整備に注力したものの・・・】
その後を継いだのが、東龍太郎(あずま りょうたろう)氏。1959年に知事に就任。この方は東京五輪の為のインフラを盛んに作った。政治経験はなく、職業は医学者。なぜ、都知事に立候補したかというと、国際オリンピック委員会(IOC)の委員だったことから、東京五輪の開催(1964年)を勝ち取り、五輪の開催に向け奔走する役割を与えられていた。

実績としては、「首都高速道路」「都営地下鉄」「環状7号線」を整備など、五輪の為のインフラ整備を実施。時代の特色がよく表れているように思う。この時に副知事を務めたのが後に知事となる鈴木俊一氏で、行政に明るくない東氏をサポートし実務を取り仕切っていた。インフラ整備は非常によかったが、実は公害問題や都市問題を発生させる一つの原因にもなってきたといえる。

1950から60年代(59年~67年)の2期にわたった。まさに時は高度成長の時代。だからこそ、インフラ整備に注力していた。そういう意味ではこの時代も、特徴があった。

 


美濃部亮吉氏(画像はhatena/kuromori999様ブログより)


【東京に青い空を取り戻す】
その後3人目の知事として美濃部亮吉氏が1971年に就任。学者だが、いってみれば東京のさまざまな矛盾が出てきた時代、特に杉並公害などの「公害問題」を問題視し「ストップ・ザ成長」を掲げ、成長路線を少しゆるやかにし、「東京に青い空を取り戻そう」と青いバッジをつけて選挙活動を実施。実績としては「老人福祉手当」「老人医療費無料」といった「福祉政策」の充実、「高齢住民の都営交通無料化」などさまざまな無料化政策を実施し非常に人気があった。しかしながら、この施策により財政は赤字となる問題を引き起こした。

これは東氏の時代にインフラ整備を実施してきたツケが出て、それをなんとか修正しようという時代だったのだろう。今、中国は公害問題で大変だが、その景色は当時の東京を思い起こさせるようであり、それを「青い空を見えるようにした」ということは、それなりに大きな意味を持っていた。


鈴木俊一都知事と敦子夫人(画像はDND大学発ベンチャー支援情報より)


【アピール選挙戦の兆しが見えるも、都政は盤石】
無料化政策は住民にとっては非常によい話だが、財政的には苦しくなった。その中で登場したのが鈴木俊一氏。先に紹介したが、東氏の都知事時代に副知事を務めた。実績としては「財政再建」と「新都市開発」を実施。「新都市開発」とは新宿に都庁を作ったり、臨海副都心を作るなど、非常に大きな意味を持ったように思う。「財政再建」においては、職員定数削減、退職金の引き下げ、福祉政策の見直しなど「行財政会計」を盛んに実施した。そういう意味では、それなりの役割を果たしたように思う。

鈴木氏は当時80歳だったが、お元気で選挙戦時に「前屈」をして身体の柔軟性をアピールした。その時の対抗馬は元NHKキャスターの磯村尚徳氏。磯村氏はフランス語に長けた方で、フランス派ともいわれていたが、選挙戦では庶民派をアピールするために銭湯に行ったが、ある意味では結局そのアピールで失敗し選挙に敗れた。

鈴木氏は実務派の行政を実施。自民党分裂選挙だったが、それによって効果を上げたといってもよい。都知事選が変質したのは、鈴木氏の後からである。

青島幸男氏(画像は、matome.naver.jpより)


【都知事選の変質はここから】
何がはじまったかというと、タレント候補青島幸男氏が都知事選に出馬。青島氏は何をしたかというと、選挙運動を一切行わず、同時に臨海副都心の都市博覧会の中止を訴えた。「おカネもかかるし、やっても意味がない」と「ハコモノ行政」を批判したことが当時受けた。これが唯一実施した政策で、1期で終わってしまう。


石原慎太郎氏(画像は東京都ホームページ/ブラッターFIFA会長と歓談)

【環境・国際化政策に成功するも・・・】
そして、石原慎太郎氏が6人目の知事に就任。石原氏は「環境」と「国際化」を掲げ、「ディーゼル規制」「羽田の国際化」等を実施。「東京から国が変わるんだ」と言って、国に対して挑戦するようなことを言い出した。特に「尖閣諸島の買取」を言い出したというようなところが大きなポイント。これは言い出しただけで、問題を大きくして終ったという感じだった。石原氏も長く都知事を務め、4期。

石原氏がなぜ都知事に出たのかを紐解くと、美濃部氏に選挙戦で以前負けたということが「トラウマ」になっており、個人的には都知事になって見返したということもあったように思う。

 左より猪瀬直樹氏、舛添要一氏(画像はいずれも東京都ホームページより)

その後、猪瀬直樹氏、舛添要一氏と続くが、どちらも「カネの問題」で非常に短命で終わってしまった。


【カギはどのようなテーマを打ち出すか】
こうやってみてくると、知事の資質は東京は世界の大都市で、世界の問題を集約したようなところでもある。特に途上国にとっては先進的な地域である。そのような問題においてどのようなテーマを打ち出すかということが大きいように思う。

今でいうなら世界は二極化している。この二極化をどうやって解消していくのか。日本についてみると、安全・安全の問題において直下型地震への対応といったようなことがある。これらの問題について、各候補がもっと真剣に討論し、そこに都民が将来安心できるというようなことをみせるというのが非常に大きいように思う。

テーマは「待機児童」「待機老人」「雇用」「教育」の問題など上げればきりがないほど問題はある。そういうものを一つ一つ丁寧にディベートして欲しかったようにも思う。これまでの「著名人であればいいというだけでは都知事は務まらない」ということを自覚してほしい。過去を紐解くと、まさしくそれが証明されているように思うのでよい選択をしたい。

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