時代を読む

ジャーナリスト嶌信彦のコラムやお知らせを掲載しています。皆様よろしくお願いいたします。

「壁」崩壊を現場で目撃 

1989年12月、新しく選出された大統領による演説

1989年12月、新しく選出されたハベル大統領による演説(出典:チェコツーリズム)

 ベルリンの壁が崩壊して、今年で30年となる。東欧の旅行の自由化、国境開放でベルリンの壁が事実上崩壊したのは1989年11月だが、東西を分けていた象徴的なブランデンブルク門が開通したのは12月末だった。実は、私は89年末から90年正月にかけ、旧ソ連、東西ベルリンとポーランドチェコスロバキアの東欧3ヵ国を取材して歩いたので“壁崩壊30年”のニュースは特別感慨深く感じた。

 最初に足を踏み入れた旧ソ連は、その数年前に訪れた時とは全く別の姿に見えた。モスクワ駅の裏は闇市のようで、国営マーケットの売り場には売るべき製品がほとんどなかった。肉や野菜の必需品は、近郊の農家の人が小型トラックなどに乗せて売りに来ていた。人々はトラックの周りに集まり品物を買っていたが、肉は機械でスライスしたものはほとんどなく、ナタでぶつ切りにしたものを量り売りする光景が目立った。日本の終戦時の闇市などを彷彿とさせるようだった。東西ベルリンを仕切るゲートは残っており、チェックする役人らもいたが、パスポートを見せると自由に通してくれた。壁はまだ長く残っていたが往来はほとんど自由に出来た。

 12月21日の夜にベルリンの象徴であったブランデンブルク門の周囲の壁が取り壊された。そこは東西のベルリン市民で熱気にあふれ、門の上まで登った人達も大勢いた。テレビで何度も見たベルリンの壁崩壊当日の市民達の歴史的興奮を、実際にその群集の中に交じって現場で見ることが出来たのは記者冥利に尽きる思いだった。ベルリンの壁崩壊のニュースはその後、ことあることに何度も見ており30年経ったが、あの壁をドリルで壊している光景と、一夜明けて門が開通した時に続々と集まってきた声はまだ昨日のことのように耳に残っている。

■東か西か、人生の選択
 東ドイツの住人に「なぜあなたは東ベルリンを住居に選んだのか」と聞くと、「第二次大戦直後は東ベルリンの方が豊かだと言われていたから・・・」と答えたが、「実際に住んでみると旅行などは自由に出来ず生活は不便でストレスが多かった」と漏らす。「西ベルリンを選んで住んでいた方がよかった」とか、「事前のウワサと実際に生活した実情はまるで違っていた」と述べていた人が多かった。

 特に「戦後10年もすると西ドイツのほうが豊かになってきたので、自分の選択の間違いに悔やんだ」と言う。また、壁の側面には東ベルリンの生活に耐え切れず、壁を越えて西に舞い戻ろうとして殺害された人々の名前が刻まれた場所もあり、当時は東から西へ入り込むことは命がけだったのだなということを実感させられた。チェックポイントをくぐり抜けるため、自動車の下に隠れて決行した人々もいたと聞いた。

■マゾビエツキ首相、ハベル大統領と会う
 私はベルリンから西側に復帰したポーランドチェコスロバキアに行き、両国の要人たちのインタビューを試みた。自由化を目指し、ソ連の統治下から離れたばかりのポーランドチェコは貧しかったが、街の雰囲気は少しずつながら変わっていた。ポーランドでは、新しくマゾビエツキ氏が首相になっていたし、チェコではもう2-3日で劇作家のハベル氏が大統領になるだろう、とウワサされていた。

 私は両氏にインタビューをし、今後の国づくりの方向や日本への期待、役割などを開きたいと考え、インタビューの手づるを探した。すると、ハンガリーポーランドチェコスロバキアなどには、かつて日本で学生運動安保闘争を闘った活動家が、比較的自由だった東欧に来て住んでいるという話を聞いた。彼らは東欧の自由化を願う現地の活動家たちと連絡を取り合うとともに、日本人の活動家たちも国境を越えてネットワークを持っているという。そこで、その日本人活動家たちを探し出し、現地の事情を聞くと共に、東欧で自由化活動を行なっていた人たちへの紹介や橋渡しを依頼した。彼らもまた日本を出てからの日本の実情や日本の学生運動、左派活動などの情報を知りたがっていたので徹夜で話し込んだりした。

マゾビエツキ首相(当時)と嶌

マゾビエツキ首相(当時)と嶌

■昔の活動家仲間が仲介
 すると、そのうちにマゾビエツキ・ポーランド新首相の側近を知っているのでインタビューの段取りをつけてくれる約束ができたり、チェコのハベル大統領候補とのインタビュー日程も取ってくれた。私も学生時代に学生運動にかかわっており、共通の知人、友人などの話からひと肌脱いでくれたのだ。またソ連から独立した東欧諸国は、日本が敗戦からわずかの間に立ち直り工業国家、輸出大国、GDP第2位(当時)となった秘密に大いに関心を持っており、日本の要人に会いたいという希望を抱いていたので、ソ連のくびきから離れた直後で国の成長にどんな方針を立てたらよいか思案中だったのだと思う。

 私はこうして幸運にも暮も押し迫った1989年12月27日夕方、ポーランドのマゾビエツキ首相と会うことができた。またその日の夜、ほぼ大統領となることが決まっていたハベル氏の側近から「明日の朝(12月28日)10時にプラハのハベル氏の事務所に来てくれればお会いする」という吉報も入ってきた。ポーランドワルシャワからチェコプラハまで車で10時間以上はかかると言われていたので、早速荷物を整えて夜道を車でプラハに向かった事を覚えている。途中、ポーランドチェコの国境に検問所があり、数十台の車が検問審査を受けていた。運転手と知人が「前へ行ってハベル氏と会う事情を話し、いくらかのお礼を出せばすぐ通してくれるだろう」と知恵を働かせてくれたおかげで、私達は夜が白んできた頃にはスムーズに国境を通過できた。

ワルシャワからプラハへ夜通し走る
 ただ、プラハ市内に入っても事務所の場所や道順が分からない。途中で住所を見せながら道を聞いてようやくハベル氏の事務所に到着したのは約束の午前10時直前だった。落ち着いた古都らしい素晴らしい町の様子であることはわかったが、約束の時間が迫る中で私達は番地の書いてあるハベル氏の事務所を探すのに気ばかりが焦って、とても街をゆっくり見回すゆとりもなかった。

 ハベル氏の事務所は労働組合のような所だった。黒いセーター姿で現れたハベル氏に「夜を通してワルシャワからやってきた」と言うと、「いやー、よく来てくれた」とねぎらってくれたが、同時に「私が大統領になるかどうかは、まだ正式には決まっていない。最後の混乱があるかもしれないのだ」と言う。政権交代の闘争がまだ完全に終わっていないのだなという最終的な緊張感が伝わってきた。革命前夜とはこんな状況の中で進んでいるのかと実感させられた。

 ハベル氏は「私が翌日、正装でヴァーツラフ広場近くの宮殿のテラスに出て国民に手を振っている姿を見たら、革命が成功して政権交代が出来たと思ってください。」と言った。ソ連統治下にあった政権が倒れ、交代するのだからこれまでの政権の抵抗も凄まじいのだろうと察しがついた。

■日本の成長、発展に学びたい
 マゾビエツキ首相、ハベル氏のインタビューでは、両首脳とも「今後の政治の道のりは決して安泰ではない。世界の人々の助けがどうしても必要になる。特に日本は、第二次大戦の敗戦から短期間で見事に立ち直った。日本の経験を学びたいし、支援もお願いしたいと思っている。」と口々に同じような趣旨のことを言われた。同じ頃、両首脳とインタビューできたのはアメリカ、欧州の新聞、テレビ局が数社だと聞かされた。その中に日本のメディアが選ばれたのは、やはりまだバブルの余韻が残り、GDPアメリカに次いで世界第二位の地位にあったという日本の国力の勢いだったと思わざるを得ない。

ハベル氏と嶌

ハベル氏と嶌

■ハベル氏はセーター姿で
 それにしてもマゾビエツキ首相とハベル氏のインタビューのあり方の違いにはびっくりした。マゾビエツキ氏はすでにポーランド首相に就任し、官邸の立派な部屋でお付の人も控えた場所で一問一答を行なった。ハベル氏はまだ大統領に就任する前日の最後の詰めの時期だったこともあり、場所は事務所のようなところで、ハベル氏は黒のセーター姿の一般人の格好だったのだ。

 ただハベル氏は午後になると宮殿のテラスに正装で登場し、国民に手を振って就任を喜んでいる風だった。前日に会った時の姿とは完全に違い、大統領の風格を身に付け国民の喜びと歓声に迎えられていた。私は広場の片隅で前日に会ったハベル氏が全く別人のように見え、人の運命が一夜にして様変わりする光景を痛くなるほど目に焼き付けた。
いまその東欧が保守化の傾向をみせているという。移民の流入が大きな要因だ。わずか30年の歴史で国の潮流も変わるものだ。
TSR情報 2019年12月3日】 

昨日 TBSラジオ『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』 ゲスト:皮膚研究のスペシャリスト 傳田光洋氏(資生堂グローバルイノベーションセンター主幹研究員)二夜目 音源掲載

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昨日のTBSラジオ 『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』(21:30~)は 皮膚研究のスペシャリスト 傳田光洋氏(資生堂グローバルイノベーションセンター主幹研究員)をお迎えした二夜目の音源が番組サイトに掲載されました。

花粉が肌のバリア機能を低下させることを実証し、美容法の開発につながったり、アトピー性皮膚炎や肌の老化トラブルを起こすメカニズムの解明など、その研究内容についてお伺いしました。

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前回の人間や動物、植物の「皮膚」の役割や、120万年前に体毛を失ったとされる人間が、毛づくろいをする代わりに言語が発達したと考えられるなど、驚きの皮膚トリビアについてお伺いした放送音源は水曜正午までお聞きいただけます。

傳田氏より「コウイカの変身」と「カエルのサンスクリーンケア」の珍しい動画をご紹介いただきましたので、皆様にも共有いたします。

傳田氏が上梓された書籍の一部をご紹介いたします。

次週は、住友化学株式会社 執行役員の広岡 敦子氏をお迎えする予定です。

新“三種の神器”は何か

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 暮らしを豊かにし、生活を便利にしてきた代表的な製品を昔から“三種の神器”と呼び、時代によっていつもシンボルとなるものが生まれてきた。三種の神器をたどると、日本の生活の発展史が見えてきたものだ。

 第二次世界大戦が終り成長期に入ってきた1950年代にテレビ放送が開始されると・・・

 

続きは、本日配信のメールマガジンまぐまぐ」”虫の目、鳥の目、歴史の目”にてご覧ください。(初月無料)

続きに掲載されている本記事の見出し
■新“新”三種の神器
■“キャッシュレス”時代も呼び込む
■格差と考えない人間を生む?

 

画像:acworksさんによる写真ACからの写真

「ウズベキスタン協会とウズベキスタンの強い結びつき」~サプライズ編~

在ウズベキスタン大使館 特命全権大使 藤山 美典ご夫妻と嶌

ウズベキスタン大使館 特命全権大使 藤山 美典ご夫妻と嶌

スタッフからのお知らせです。既報の通り、嶌が会長を務める日本ウズベキスタン協会主催の20周年記念旅行が開催され、9月6日から13日までウズベキスタンに行ってきました。参加された方より続々と感想が寄せられています。今回の旅行の写真とともに紹介します。

今回は、前回に引き続き、会員の布施 知子さんからの寄稿文を紹介します。布施さんは、公益財団法人アジア学生文化協会 常務理事として長年、アジアからの留学生への日本語教育等の支援に携わられていらっしゃいます。

非常に明るいお人柄で、さまざまな方々と楽しく交流されており、初のウズベキスタンを堪能されている姿が非常に印象的でした。

布施 知子さん

布施 知子さん

ウズベキスタンの魅力を盛り込んだ濃密な旅行記を送付いただきましたので、前回の「ハイライト編」に続き、今回は「サプライズ編」をお届けします。

昨日お届けした「ハイライト編」は以下リンクよりご覧いただけます。

忘れないうちに、サプライズも列挙する。

その1
創立20周年記念パーティーでは、藤山大使ご夫妻、駐在員、日本語学校「NORIKO(ノリコ)学級」のガニシェル校長、元日本留学生等駆けつけてくれ、協会会員は顔見知りと旧交を温めていたこと。また、思いがけず一組の男女による軽快な民族舞踊が披露された。 

ヌクス空港到着時の楽団と美女による塩とナンの歓待

ヌクス空港到着時の楽団と美女による塩とナンの歓待

その2
ヌクス空港に夜、到着したが、カラカルパクスタン共和国 Kazbekov第一副首相のお出迎えと民族衣装の女性達がピラミットのように重ねたパン(ナン)と塩を携え、また男性たちによる民族楽器の演奏による出迎えがあり大いに感激した。更に翌日は、共和国警察車の先導でヌクスからムイナクへ我々のバスは移動。

サヴィツキー美術館内のゲルでの民族楽器の演奏と歌による歓待

サヴィツキー美術館内のゲルでの民族楽器の演奏と歌による演奏による歓待

その3
ヌクスのサヴィツキー美術館の特別見学と美術館内展示のゲルの中で民族音楽演奏があり民族楽器と素晴らしい歌い手による歌で歓迎された。 

ホレズム州副知事より民族衣装と帽子のプレゼント

ホレズム州副知事より民族衣装と帽子のプレゼント

その4
ヒヴァを離れる前の夕食会場にTemur I. Davletovホレズム州副知事が現れ、嶌会長に昔のビバの役人が着ていた制服?(縞模様の短い衣装)と冬は寒い地域なので、ラクダの長い毛で作ったという伝統的な帽子がプレゼントされた。更に、ホレズム州副知事は夕食の席にヒヴァの民俗音楽団を派遣してくれ、歌と踊りと大変にぎやかな楽しい席にとなった。

モティル・サマルカンド副市長による出迎え

モティル・サマルカンド副市長による出迎え

その5
サマルカンドに電車で到着した時、プラットホームにモティル・サマルカンド副市長の出迎えがあり、歓迎の挨拶と駅の特別室を通っての特別改札となった。更に、我々のサマルカンド観光に市の職員1名が同行し、いろいろ配慮してくれた。さらに、夜のレギスタン広場のプロジェクションマッピングの席も特別に用意してくれた。まだほかにもサプライズがあったかもしれないが、とりあえず思い浮かぶまま書き出した。

一橋大学への留学経験もある知日派のアジズ副首相(中央)より表敬訪問

一橋大学への留学経験もある知日派のアジズ副首相(中央)より表敬訪問

最後に特記したいことは、ウズベキスタンになってからの元日本留学生が帰国し、政府の重要ポストについたり、外務省や日本大使館での勤務、ビジネスでの成功、観光ガイド等々について活躍されていた。そして、その方々の多くが日本ウズベキスタン協会とかかわりを持っていることだった。

日本語を学ぶ方々のための日本センターの展示

日本語を学ぶ方々のための日本センターの展示

また、短時間だったが日本センターで交流した日本語を学んでいる大学生や社会人の日本語会話力の高さにも驚いた。各グループに別れ、学生達と交流したのだが、私のグループには外国語教育で1~2位の国立タシケント東洋大学の日本語学科の学生が3人いて、中には「日本に留学して将来日本文学の翻訳の仕事がしたい」と言っていた。ぜひ日本に留学して、夢を実現できればよいなと思っている。

ガイドの遠藤さん(左)とドストンさん(右)

ガイドの遠藤さん(左)とドストンさん(右)

そして、最後になるが、国立サマルカンド東洋大学国語学部日本語学科を卒業しているツアーガイドのドストン君は、筑波大学に1年間留学し、日本でも様々な経験を積んでいる頼もしい我々の助っ人だった。ドストン君の卓越したツアーガイドと様々な現地での配慮が、この旅行を更に豊かに実りあるものにしてくれたのは周知のとおりです。ありがとうございました。

そして、嶌会長、川端理事長、佐々木さん、そしてツアーガイドのドストン君、遠藤さん、この旅の企画、準備から、我々の旅行中の安全と見守り、ありがとうございました。

日曜(15日) TBSラジオ『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』 ゲスト:皮膚研究のスペシャリスト 傳田光洋氏(資生堂グローバルイノベーションセンター主幹研究員)二夜目

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日曜(15日)のTBSラジオ 『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』(21:30~)は 皮膚研究のスペシャリスト 傳田光洋氏(資生堂グローバルイノベーションセンター主幹研究員)をお迎えした二夜目をお届けします。

花粉が肌のバリア機能を低下させることを実証し、美容法の開発につながったり、アトピー性皮膚炎や肌の老化トラブルを起こすメカニズムの解明など、その研究内容についてお伺いする予定です。

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前回の人間や動物、植物の「皮膚」の役割や、120万年前に体毛を失ったとされる人間が、毛づくろいをする代わりに言語が発達したと考えられるなど、驚きの皮膚トリビアについてお伺いした放送音源は来週水曜正午までお聞きいただけます。

 傳田氏が上梓された書籍の一部をご紹介いたします。

「ウズベキスタン協会とウズベキスタンの強い結びつき」~ハイライト編~

タシケント「日本人抑留者資料館」スルタノフ館長と一行

タシケント「日本人抑留者資料館」スルタノフ館長と一行

スタッフからのお知らせです。既報の通り、嶌が会長を務める日本ウズベキスタン協会主催の20周年記念旅行が開催され、9月6日から13日までウズベキスタンに行ってきました。参加された方より続々と感想が寄せられています。今回の旅行の写真とともに紹介します。

今回は、会員の布施 知子さんからの寄稿文を紹介します。布施さんは公益財団法人アジア学生文化協会 常務理事として長年、アジアからの留学生への日本語教育等の支援に携わられていらっしゃいます。

非常に明るいお人柄で、さまざまな方々と楽しく交流されており、初のウズベキスタンを堪能されている姿が非常に印象的でした。

今回、ウズベキスタンの魅力を盛り込んだ濃密な旅行記を送付いただきましたので、二回に分けてお届けします。

以下、布施 知子さんの文章「ハイライト編」をご紹介します。

布施 知子さん

布施 知子さん

日本ウズベキスタン協会設立20周年記念「ウズベキスタン周遊8日間の旅」には、いくつかの偶然が重なり参加できた。動機は未知の土地への好奇心と、深層的憧れのシルクロードのオアシスの街や世界遺産となっているサマルカンド、ヒヴァを訪ねてみたいということ。もう一つ付け加えると、私の長年の仕事とも関係する、最近急増しているウズベキスタンからの留学生の国情を知る機会になればとの軽い気持ちだった。

しかし、この中央アジアウズベキスタンの旅は、思いがけず濃密な学習の旅となった。旅には真っ白のキャンバスで出かけたが、旅を終える頃にはキャンバスには埋まりきれないほどの下絵が出来上がり、この後どのように描き上げてゆくのか、思案せねばならない。

日本ウズベキスタン協会の活動については、これまで部分的にしか知り得ていなかった。今回の旅で、嶌会長の20年にわたるウズベキスタンとの関わりと貢献、また川端理事長のウズベキスタンにおける調査・研究と社会貢献等を知る機会を得、それに裏付けられた旅先での日々出会った様々なサプライズに、協会とウズベキスタンとの強い結びつきを知るよい機会となった。

今回の濃密な旅を振り返ってみたい。

日本人墓地入口にて墓守のミラキルさんと一行

日本人墓地入口にて墓守のミラキルさんと一行

~ハイライト~

その1
一般に敗戦後のロシアによる日本人捕虜のシベリア抑留の話はよく知られている。しかし、かなりの数の捕虜が中央アジアに連れて行かれ、ウズベキスタンで劇場の建設、発電所の建設等に携わった部隊もいたということについてはこれまでほとんど知られていない。二日目に訪れた日本人墓地(きれいに整い桜の木が植えられた墓地は、ウズベキスタンの親子が代々墓守をしている)や、墓地に隣接する日本人捕虜の記録を地道に調べ、日本人抑留者資料館として公開されているスルタノフ館長の展示資料や説明と『ヒイラギ』という日本人抑留者の記録ビデオを見て、これまで知らなかった多くのことを知り、学ぶことができた。

「ナボイ劇場」内部 細部にわたる彫刻が見所の一つ

「ナボイ劇場」内部 細部にわたる彫刻が見所の一つ

その2
そして、日本人捕虜457名によってつくられたタシケントの代表的な建造物となっているナボイ劇場(ロシアの4大劇場の一つ)を訪れた。全て見学できる予定が手違いで外観のみの見学と言われ、嶌会長の粘り強い交渉で館長の案内で内部の見学もさせてもらうことができた。劇場の内部を見ることなしに、この劇場の素晴らしさを語ることができぬほど細部にわたり細かい細工が施された歴史的建造物であった。1966年にタシケントを襲った直下多型大地震で街のほとんどの建物が崩壊した中、無傷で救護所に使われたというこの美しく堅牢な建物への関心が集まり、これの建設に携わった日本人への関心と尊敬が高まったという。

カラカルパクスタン共和国の漁村「ムイナク」にある「船の墓場」

カラカルパクスタン共和国の漁村「ムイナク」にある「船の墓場」

その3
限られた時間の中でウズベキスタンの東に位置する首都タシケントから西にある自治協和国・カラカルパクスタン共和国に移動し、アラル海の環境公害の実態に触れて来た。かつて漁村であった「船の墓場」には、数台の漁船が乗り捨てられ並んでおり、その向こうには荒涼とした荒野が地平線まで続いていた。旧ソ連時代の計画経済政策による大規模な綿花栽培の展開によりアラル海の水が無くなり、現在の海面は元の1/10ほどになっている。生態系がすっかり変わり、移住を余儀なくされた漁民も多い。20世紀最大の環境破壊と言われている。

タシケント「国立歴史博物館」に展示されている1966年大地震で被災した時計

タシケント「国立歴史博物館」に展示されている1966年大地震発生時刻で止まった時計

その4
広大なユーラシア大陸の重要な拠点(通り道)にあったこの国の悠久な歴史を知る手掛かりとなったタシケントの「国立歴史博物館」、サマルカンドの「アフラシャブ博物館」の見学。そして、ムナイクの「アラル海歴史博物館」、ヌクスの「サヴィツキー美術館(考古学者の収集品、民族芸術)」の見学。

サマルカンド「レギスタン広場」のプロジェクションマッピングのティムール

サマルカンド「レギスタン広場」のプロジェクションマッピングのティムール

その5
街全体が世界遺産のヒヴァのインチャカラの観光、世界遺産サマルカンドの観光(シャーヒジンダ廟、グーリアミール廟、レギスタン広場、ビビハニムモスク等)とレギスタン広場でのプロジェクションマッピングによるサマルカンドの壮大な歴史物語の鑑賞。

20周年記念パーティーでウズベクダンサーと共に

20周年記念パーティーウズベクダンサーと共に

その6
タシケントの協会創立20周年記念パーティーで日本大使をはじめとした在タシケントの日本人及び元日本留学生との交流会(with民族舞踊)、日本センターでのタシケントの日本語学習者との交流会。

ジャパンセンターで日本語を学ぶ生徒と交流

ジャパンセンターで日本語を学ぶ生徒と交流

その7
タシケントのチョルスバザール見学、ヒヴァの城内にある東京農工大の支援するウズベキスタンの女性の自立支援のお店「Cocoonコクーン)」の見学と買い物、タシケントのアートバザールの見学と買い物、サマルカンドのショブバザール見学・買い物、スーパーでの買い物。

中央アジア最大のバザール タシケント「チョルスーバザール」

中央アジア最大のバザール タシケント「チョルスーバザール」

その8
日々の食事:朝のホテルの朝食、昼食、夜の食事。

タシケントからサマルカンドに向かう特急列車「アフラシャブ号」で配布された軽食

タシケントからサマルカンドに向かう特急列車「アフラシャブ号」で配布された軽食

その9
乗り物:タシケントサマルカンドの特急列車「アフラシャブ号」乗車、タシケント→ヒバ、ヌクス&ウルゲンチ→タシケントの国内便の利用、また予想以上に快適な(新しい)観光バスでの移動。(但し、タシケントで前評判のよかった地下鉄乗車と駅の見学ができなかったのは残念!)

タシケント市内の地下鉄「ユヌサバード線」のアブドゥッラ・カディリー駅構内

タシケント市内の地下鉄「ユヌサバード線」のアブドゥッラ・カディリー駅構内

その10
旅で目に残る風景はやはり日本にないものばかり。地平線までずっと平らな荒野、そこにこの時期咲くピンクの花が美しかった。草もない砂漠と小高い丘、あちらこちらで沿道から見た延々と広がる綿畑、牛と羊の放牧、世界遺産のモスク、廟、神学校、巨大なバザール、家を取り巻くポプラ、背の高い桑の木、・・・

また、この国は雨が少なく乾燥しているせいか、大都市でさえすえた匂いや悪臭がない清潔感のあふれるところとの印象をもった。

バスの車窓から見えた荒野

バスの車窓から見えた荒野

まだまだ、記憶に残る様々なこと、ものが浮かぶが、この辺でストップしておく。ただ、今回は日々盛りだくさんのスケジュールで、かつメモも取らなかったため、不正確な記憶も多々あると思っている。おかしなところ、誤りなどはご指摘いただけばありがたい^^

なお、今回の現地での訪問先は、川端先生の現地でのご経験の中から厳選してくださったものも多いのではと感謝。また、様々なサプライズは、嶌会長、川端理事長のウズベキスタンに対する長年の貢献による賜で、参加者は数々の大変貴重な経験をさせていただいたこと、改めて感謝いたす次第です。

サプライズ編は以下リンクを参照下さい。

タマリスクの花畑

田中さんが撮影されたヌクスからムイナクへの道中、バスの車窓から見えたタマリスクの花

田中さんが撮影されたヌクスからムイナクへの道中、バスの車窓から見えたタマリスクの花

スタッフからのお知らせです。既報の通り、嶌が会長を務める日本ウズベキスタン協会主催の20周年記念旅行が開催され、9月6日から13日までウズベキスタンに行ってきました。参加された方より続々と感想が寄せられています。今回の旅行の写真とともに紹介します。

今回は、会員の田中 麻子さんからの寄稿文を紹介します。田中さんは、協会主催のウズベク語講座にもご参加いただいており、熱心にウズベク語を学ばれ、現地の方とウズベク語で交流を図られておりました。

今回の旅行の前、ウズベキスタン大使館主催のイベントでお会いした際にご自分で作られたアトラスのスカートを身につけておられるなど、非常にウズベキスタンに親しみをもってくださっている方です。

以下、田中 麻子さんの文章をご紹介します。

田中 麻子さん

田中 麻子さん

旅行の4日目、ヌクスからムイナクへ向かう途中のことでした。

街を後にし、地平線を望む大地に紫に近いピンク色の植物がちらほら見えてきました。

20年前の9月に中国・新彊ウイグル自治区へ旅行した際も咲いていたタマリスクの花。今回の方が花の色は濃いようでした。

揺れるバスの中からあちらこちらにタマリスクが群生しているのが見えました。こんなお花畑に出会えるとは、長時間ドライブのご褒美でしょうか。

アラル海の漁村・ムイナクからヌクスへの道中の風景

アラル海の漁村・ムイナクからヌクスへの道中の風景

他にもヌクスからヒヴァへの道中や、タシュケントからサマルカンドへ向かう列車の中からもタマリスクが咲いているのを見掛けました。割と水路の近くに咲いている様です。

タシケントからサマルカンドに向かう特急列車「アフラシャブ号」

タシケントからサマルカンドに向かう特急列車「アフラシャブ号」

昨年10月にウズベキスタンを訪れた際は同じ列車からも全く見えなかったので、丁度開花の時期だったのかもしれません。

植物でもシルクロードは繋がっていると感じられた旅でした。

ヌクスからヒヴァに向かう途中休憩で立寄ったガソリンスタンド付近の綿花畑

ヌクスからヒヴァに向かう途中休憩で立寄ったガソリンスタンド付近の綿花畑

いつか機会があれば、ウズベキスタンで綿花の摘み取りを体験したり、春に咲くチューリップの花畑を見たりできればと夢は膨らむばかりです。

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