サヨナラ、ヘレンさん 女性記者の先駆者だった
アメリカのホワイトハウス詰めの名物記者だったヘレン・トーマスさんが7月20日に亡くなった。ヘレンさんはアメリカにおける女性ジャーナリストの最長老で2010年6月に89歳で引退するまで、ホワイトハウス記者クラブの主のような存在だった。
ヘレンさんは1943年にアメリカのUPI通信に入社、その取材ぶりのすごさからケネディ政権の発足した1961年にアメリカ記者にとってはあこがれのホワイトハウス詰めになり、以降2010年6月に引退するまで世界のジャーナリストに名をとどろかせていた。これまで10人以上の大統領と直接対話したりしてきた花形記者。2000年にUPIが経営危機に陥ってフリーとなった後も、ホワイトハウス会見場の最前列に座る指定席の特権を記者会から与えられていた。
ヘレンさんはレバノン系の記者でアメリカのイスラエル寄りの政策にはいつも批判的だった。ヘレンさんが引退のきっかけとなったのもネットメディアでイスラエルが占領地区で入植を続けることに批判したうえ「イスラエルはパレスチナから出て行け」と主張。「じゃ、ユダヤ人はどこに行けばいいのか」と問われ「ポーランドでもドイツでもアメリカでもどこでも帰ればよい」と語って物議をかもし、ユダヤ系団体が一斉に抗議する騒ぎとなった。ホワイトハウスの報道官も「攻撃的で一線を越え非難されて仕方のない発言だ」と批判。特派員協会も「記者として言い過ぎだ」と警告したため、ヘレンさんは謝罪したうえ辞任した。
私も1980年代にホワイトハウスの記者会見でよくヘレンさんを見かけたが、いつも最初に手をあげ、イスラエル問題では歯に衣着せぬ発言で有名だった。レーガン大統領はそんなヘレンさんに鷹揚に構え「ヘレン……」といつも最初に名指しで質問を受け付けた。中東で相次いで戦争を仕掛けたブッシュ・ジュニアとは肌があわずつねにきびしい姿勢でのぞんでいた。
ヘレンさんは72年の歴史的なニクソン訪中に唯一の女性記者として同行、70年代半ば以降はUPIのホワイトハウスのキャップとして男性記者たちを指揮していた。ヘレン記者の死に対しオバマ大統領は「ジャーナリズムの世界で働く何世代もの女性たちにとって真の先駆者だった。いくつもの扉を開き、いくつもの壁を破ってきた。最古参になれたのは、厳しい質問を投げかけ、指導者に説明を求めることで私達の民主主義が最善の形で機能するという強い信念をもっていたからだ」とその功績を讃えた。ホワイトハウス記者会は長年の功績を讃えつつも「最近の発言は悲しかった」と記者として一線を越えたのではないかと批判もした。
日本で1980年代には政治部に女性記者はほとんど見かけず、ましてや官邸キャップになることは想像さえされなかった。わたしはアメリカのヘレンさんの現実と行動を見ていて早晩日本にも政治の世界を女性記者が闊歩する時代がくると思っていたが、いまや現実になっている。【財界 2013年8月27日 第357回】